後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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【ツイート転載】憎悪表現の裏にある言論メディアの変質(H28.09.04)

評論という行為をする際には、常に「他者を見下す快楽」と闘わなければならないと最近感じる。その快楽に溺れると、人格が崩壊し、ありとあらゆるものを見下さないと気がすまなくなる。

Togetterやそのコメント欄を見ていると、東日本大震災以降、あらゆる陣営で「他者を見下す快楽」に溺れてしまった人間がかくも多く発生してしまったのかと感ずる。

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昨今のツイッターにおける「評論」の消費のされ方を見ると、いまの「評論の読者」というのは「一緒に石を投げる存在」「自分の暴力狼藉を肯定してくれる存在」を求めて「評論」を消費しているのではないかと思えてならない。そして一部のメディアもこれに追従している。これは危機的状況ではないか。

憎悪表現の問題を考えるとき、「評論」のあり方がここ十数年で変わってしまったというのは避けて通れない論点だと思う。その変化の原点はおそらく80年代のニューアカだけど、90年代以降に限って話をすすめると、90年代の宮台学派の時代には、評論というのは論客の視線に自己を同一化してスノッブに振る舞ってみせるというように消費された。宮台も「ミニミニ宮台君」とか言ってそういう流れを肯定していた(『これが答えだ!』など)。2000年代の劣化言説の時代には、「評論」は特定の社会集団(特に若者)が自分より「劣っている」ことを示してくれる言説が好まれた。

この時点で十分問題なのだが、いまの状況はさらに悪化して、自分の暴力や蔑視を肯定してくれる存在としての「評論」が好まれているように見える。あくまでも中心は自分であり、「評論」は他者をバッシングする快楽のために消費される。これは言論が社会から乖離していくことを意味している。

しかし、逆説的ではあるけど、そういう社会から乖離した「評論の読者」の意識が、むしろ社会を形作っているように思える。一緒に石を投げている限りは自分の行為は免責されるという意識の広がりこそ、憎悪表現や嘲笑の根幹に思えてならない。そしてそれは言論メディアのあり方の変質が関わっている。

いまの言論メディアのあり方を考えるとき、90~2000年代の俗流若者論は決して避けて通れないんですよ。