後藤和智事務所OffLine サークルブログ

同人サークル「後藤和智事務所OffLine」のサークル情報に関するブログです。旧ブログはこちら。> http://ameblo.jp/kazutomogoto/

『検証・格差論』第14章 赤木智弘――先鋭化の果てに

本稿は2013年に同人誌即売会「おでかけライブ in 山形109」のサークルペーパーとして、2015年に同人誌『検証・格差論』に収録したものですが、近年の言論状況を鑑み、本稿を同書の無料サンプルとして公開いたします。忘れ去られようとしている「ロスジェネ」論の記録です。

なお、『検証・格差論』は下記のサイトで電子書籍として配信しております。

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さて、今回のFree Talkですが、2月15日に私がニコニコチャンネルで配信した記事が、濱口桂一郎労働政策研究・研修機構主任研究員がブログに採り上げたり、ガジェット通信から依頼があって転載されるなど、何かと話題になりました。なので今回はこの記事にもう少し屋上屋を架してみたいと思います。それが、現代の若手論客が作り出している言論状況はもとより、在特会的な排外主義を批判し、乗り越えるヒントにもなると思うからです。

ブロマガ2013年2月15日配信記事
第11回:【思潮】ロスジェネ系解雇規制緩和論者が若者バッシングに走るとき
http://ch.nicovideo.jp/kazugoto/blomaga/ar116575

この記事では、『若者はなぜ3年で辞めるのか?』で若年層の立場から雇用を論じているように振る舞っていた城繁幸が、現在はより若い世代をバッシングするような言説に走っているということを述べました。城の場合、会社組織の中で、ろくに働かないのに高給を得ている(と思い込んでいる)上の世代に対して憤りを覚えている層を煽ることによって、若い世代の代弁者として振る舞いました。そして城は世代間格差論の論客となり、現在も30代が主たる読者層と推測される『SPA!』(扶桑社。最近は40代向けの特集もよく組まれており、想定読者層の高年齢化が窺える)でも連載を持っています。
しかし、先のブロマガどころか、『POSSE』の連載第1回(本書第1章)でも指摘していたのですが、城の言説には、雇用が流動化すれば直ちに自分たちのようなロスジェネ世代の優秀な人材が救われる、という、過度に自分たちに都合のいい市場「信仰」に近いような認識を持っているとしか言いようがないのです。実際には、雇用の流動化は進展しましたが、それが労働者にとってプラスになったかというとそういうことはあまりなく、解雇に関するルールが厳格化されていなかったり、あるいは非正規雇用の問題についても正しく論じられずにイメージ先行で論じられていたりと、議論はあまり進展していないのが現状です。

城はアッパー層の「代弁者」として振る舞うことにより雇用論壇での立ち位置を獲得してきましたが、それでは非正規雇用者などのダウナー層の「代弁者」として振る舞ってきた論客はどうなのでしょうか。ここでは、件のブロマガの記事でも採り上げた赤木智弘氏を採り上げたいと思います。

さて、なぜ私がここで赤木氏を採り上げるのか。発端は2つのインターネット上の記事と、そして彼のツイッターの書き込みです。

日本大学の准教授であり、労働経済学や「法と経済学」の専門家である安藤至大が、昨年日経新聞に持っていた、コラム「やさしい経済学」での短期集中連載「若年雇用の構造問題」をインターネット上に転載しました(蛇足ですけど、安藤様、弊サークルの『紅魔館の統計学ティータイム』の宣伝(笑)にご協力くださいまして、誠にありがとうございました)。

若年雇用の構造問題
第1~4回 http://bylines.news.yahoo.co.jp/andomunetomo/20130126-00023229/
第5~8回 http://bylines.news.yahoo.co.jp/andomunetomo/20130126-00023230/

安藤の議論は、最初こそ海老原嗣生的な「雇用のミスマッチ」論を述べており、私も同紙の電子版で見ていてちょっと嫌な予感がしたのですが、それ以降の議論は、主に雇用者の立場からではありますが、バランスのとれた議論を展開しており、特に第6回の「問題大きい政策提言」は必読だと思います。解雇規制を緩和したからと言って、直ちに能力の高い若年層が雇用されるわけではなく、またロスジェネ系の論客から叩かれがちである新卒一括採用についても、実際にはそれなりの有用性があったのだということを述べています。

学生の大企業志向はどうか。求人の多い中小企業へと目を向けさせることで就職が容易になるとの主張があるが、大企業の方が平均的には賃金も高く待遇が良いという現実がある。求職者がより良い条件を目指すのは当然のことである。
選ばなければ仕事はあるという意見もあるが、個々の労働者の視点、社会全体から見ても仕事があれば良いわけではなく、能力と待遇が向上してゆくことが必要だ。中小でも優れた企業は多いが、劣悪な労働条件の企業も存在する。 (第6回)

安藤の連載は、最初の本当にごく一部は通俗的な若年層(というよりは大学生)批判の言説を参照していたものの、最終的にはそれを否定し、乗り越えるようなものとなっています。
ところが赤木氏はこれを批判しました。次が安藤と赤木氏の主なやりとりです。

赤木:いいかげん、この手の「大卒求人は足りているから仕事は足りている」という、頭の悪い考え方をやめろドアホ
https://twitter.com/T_akagi/status/303865187511988225
赤木:もう、完全に「大卒にあらねば人にあらず」の考え方じゃん。それは大卒者が「大企業にあらねば企業にあらず」と考えるのと、何が違うんだよ。アホか!
https://twitter.com/T_akagi/status/303865577833918464
赤木:増やさなければいけないのは「大卒時に就職できなかったフリーターなどの求人」だよ。企業の選り好みをちゃんと批判しろ。ドアホ。
https://twitter.com/T_akagi/status/303865805165174784
赤木:「増える非正規」って、非正規が正規に回収されなければ増えるに決まっているだろう。それを大卒の問題にすげ替えるとか、この安藤ってやつは単純な算数もできないバカなのか? バカがなんで准教授やってるんだ?
https://twitter.com/T_akagi/status/303867959149993985
安藤:後半も読んで頂きましたか?
https://twitter.com/munetomoando/status/303874926551658497
安藤:第一回は、確かに大卒に絞った議論をしていますが、それはその旨を宣言していますね。RT @T_akagi: 後半も読みましたが、仕事が足りているという前提である時点で無意味です。 @munetomoando
https://twitter.com/munetomoando/status/303875943464837122
安藤:この点は第2回で直接的に述べていますね。RT @T_akagi: そもそも「労働問題」は「仕事が無い問題」ではなく「仕事がないことによって賃金が得られず生活が成り立たない問題」だ。これを前者で考える奴は何を口にしてもダメ。
https://twitter.com/munetomoando/status/303877284727762945

実際に安藤の文章を最後まで読めば、そもそも安藤は最初から「雇用が足りている」ということを、それこそ海老原嗣生のように金科玉条の如く掲げているわけではなく、若年層が一見すると「選り好み」しているように見えるのは、やはり現実として現在は労働環境などの点から見ても大企業の方がいいということがあることと、そして適切な規制のあり方について提言しているのは明らかだと思います。また安藤は、最初から大卒者の求人や採用について述べているのは明らかでしょう。

しかし赤木氏は、自分が期待するような議論が展開されていないという一点張りで、安藤の言説を全て否定しているように述べています。ここでは引用していませんが赤木氏は「社会保障」について論じよ、と安藤を批判していますが、赤木氏は本当に「社会保障」について考えているのでしょうか。このあとのやりとりを見ると、どうも批判的に感じざるを得ないのです。

それが、「Q.解雇規制緩和・雇用流動化でみんなハッピー? A.正規労働者が非正規労働者の水準に落ち込むだけです」というTogetterのまとめに書かれた赤木氏のコメントです。

Q.解雇規制緩和・雇用流動化でみんなハッピー? A.正規労働者が非正規労働者の水準に落ち込むだけです
http://togetter.com/li/460354

まず、このまとめはタイトルの付け方が悪いと思います。《正規労働者が非正規労働者の水準に落ち込むだけです》というのがそれで、正規雇用者は非正規雇用者に比べて「守られて」いると言うことを前提にしたような物言いだと思います。しかし濱口桂一郎の『日本の雇用終了』(労働政策研究・研修機構)を読むと、正規雇用者についても様々な方法で解雇などがされていることが分かると思います。
そして赤木氏はコメント欄でこのように述べています。

タイトルを見るに、結局労組の目的は「我々は非正規労働者と同じ身分に落ちたくない」ってことね。非正規労働者から見ると、正規様が同じ立場に落ちてくるなら大歓迎なのですが。welcome to our world!!
労働市場に競争が起こらないのは「1,社会保障がろくに無いので、待遇の悪い仕事もしないと生きていけない」「2,正規の立場が安定しているので、流動性がない」からなので、この両方を改革しなければなりません。
どーせ、今の枠組みでは非正規労働者なんて幸せになれないんだから、どう考えても正規労働者の足を引っ張るほうが、幸せになれる確率はどんと増える。
今は正規と結婚するのが当たり前だと思っている女性が、国民の大半が非正規なら、非正規と結婚してくれるようになるしね。あと、非正規が当たり前なら正規しか受けられない各種控除が、非正規にも降りてくる。
少なくとも、クレジットカードの特典類を非正規も使えるようになるだろう。正規だけじゃカード会社も商売上がったりという状況になれば。
貧乏人は労働をもっていつも金持ち労組の人たちを支えているのに、労組の皆さんは自分たちんのことばかりで、いつまでたっても貧乏人を助けてくれませんね。「ひろげよう!支えあいの輪」

そして赤木氏の言説に疑問を持たざるを得ないもう一つのものが、おそらく田中秀臣ツイッターの書き込みに反応する次のような反応(エアリプライ)です。

というか、もう正規と非正規の問題って、少なくとも僕らの年代に関しては「GAME OVER」なわけだ。とっくに制限時間を過ぎている。非正規が果たして今からどうやって「人並み」の生活を取り戻していくのか。そのために必要なお金はどれだけかということを、少しは考えないとダメだろう。
https://twitter.com/T_akagi/status/306623781378605057
国の税収が増えたら、最低でも国保を税方式にしてくれるのかとか、そういうレイヤーで物事を考えないと、そりゃ怨念が無くなるはずもないよ。
https://twitter.com/T_akagi/status/306624233801383937
俺だって、正社員で金と家族もらって、ぬくぬく生活してたら、もっと長期的な視野で物事を考えられるよ。でもそんなこと無理でしょ。自分が苦しんでいるのに、目の前の事以外をどうやって考えろというのか。
https://twitter.com/T_akagi/status/306624981989720065

赤木氏はこれの近くで、「景気がよくなれば非正規の雇用も増えたり賃金もあがったりするんじゃないの?」という疑問に対し、「絶対に起きない、それが非正規」という趣旨のことを述べています。ここまで来ると、おそらくその世界観そのものを疑問視した方がいいのかもしれません。

そもそも赤木氏の言うところの「非正規」とは一体どのような存在なのでしょうか。赤木氏の図式化では、自分は「非正規」故に苦しい生活を強いられており、「正規」は《正社員で金と家族もらって、ぬくぬく生活して》いる存在であるという図式が確固としてあるという風に見えます。しかし赤木氏は、彼が敵視する「正規」、そして彼が「代弁」する「非正規」に関して、何らかのデータ、あるいは文献事例、ないし相談事例、インタビューなどを参照せず、全てが自分の考えた図式化に当てはまるものとして扱っているようにしか見えないのです。

赤木氏は、他方で「非正規でも生きられるような社会保障」と言いながら、もう一方で「自分たちの世代の非正規はもう終わり」と言っている。この2つは、少なくとも表面上は矛盾していると思います(ただ、社会保障を実現することによって「もう終わり」という状況を回避する、ということを述べることはでき、その点では矛盾しないのですが、それでも赤木氏の多くの言説においては後者を強調しすぎるきらいがあるので、前者について本当に考えているのか疑わざるを得ない。例えば《非正規労働者から見ると、正規様が同じ立場に落ちてくるなら大歓迎なのですが。welcome to our world!!》という表現に端的に現れている)。そして自分の世代の「非正規」の被害者性を打ち出すことによって、自分の言説が絶対的な正当性を持つと考えているのではないでしょうか。

赤木氏のこのような言説は、いくつもの問題点を抱えていると思います。第一に、これは城繁幸にも通ずるのですが、それはより下の世代の無視です。長く続いた不景気、円高、デフレにより、より若い世代においては、正社員においても雇用の不安定化が進んでいます。この点については、今野晴貴の『ブラック企業』(文春新書)を読んでほしいのですが、特に若年層において雇用形態に関わらず不安定化が進行する中で、「正規」と「非正規」の対立を煽る赤木氏の言説は空疎に響くだけです。

もちろん労組の側に問題がないとは言いませんし、赤木氏がコメントしているTogetterのまとめのタイトルも(というかタイトルだけが)悪いと思います。しかし赤木氏の問題点は圧倒的にこれを超えている。現代は既存の企業別労組のみならず、地域のユニオンなど様々な選択肢があります。もちろんそこへのアプローチを増やすことも重要ではありますが、赤木氏の議論は現状から見てもかなり遅れた立場にあると見なさざるを得ません。

第二の問題点は、特定の立場の人を絶対的な弱者と見なし、それによって自らの言説の正当性を強化するということの危うさです。赤木氏はことあるごとに「非正規」と言いますが、果たしてそれはどのような「非正規」を指して言っているのか。そしてそれと対置されている「正規」とは一体なんなのでしょうか。

「正規」の特権によって「非正規」が脅かされているという言説、あるいは片方を一方的な加害者、もう片方を一方的な被害者として、後者の代弁をすることが正当性の担保となっているような言説の危うさは、在特会的なるものとつながっています。そもそも在特会的なるものは、「在日(韓国・朝鮮人)」によって「日本人」が脅かされているという言説で、そのような図式にはまることによりある種の「階級闘争」を仕掛けているという認識にはまっています(安田浩一『ネットと愛国』講談社)。しかしそのような態度がある種の認知の歪みを生み出していることもまた事実なのではないでしょうか。立場、立ち位置によってのみ自らの正当性を主張する議論は、まさに赤木氏が『若者を見殺しにする国』(朝日文庫)で強大な敵と名指しした、若者論そのものではないでしょうか。

第三の問題点は、第二の問題点で採り上げた、自らを絶対的な「弱者」の代弁者という立場を僭称することにより正当性を担保するというスタイルが、一切の対話、学習を放棄させているのではないかということです。これは先に採り上げた安藤至大に対する赤木氏の反応によく現れていると思います。安藤の書いていることは、規制の必要性など、実際には非正規雇用の問題にも応用が利く視点や知見もあると思いますが、赤木氏はそれを一切無視している。

確かに、確かに非正規で賃金も安くて勉強する暇がない、と主張するかもしれません。しかし、赤木氏は、メディアでの発言権を与えられた一人の「論客」ではないのでしょうか?現に、赤木氏は、今年の頭のほうで、もっと物書きとしての収入を増やしたい、増やさなければならないということをツイッターで書いていたと思います。しかし、私が見る限り、赤木氏は「「丸山眞男」をひっぱたきたい」論考以降の視座から発展していない、それどころか劣化しているように見えます。さらに自らを「弱者」の側に置くことにより、学びを放棄している。それは「論客」として正しい態度と言えるのでしょうか?

第四の問題点は、これも第二の問題点の派生なのですが、自らの「弱者」性を絶対視することにより、他の問題を論ずることを圧殺しようとしている点です。これもまた、安藤至大への赤木氏の反応からそういう態度を読み取らざるを得ません。大学生の就職問題を論じているにも関わらず、大卒で正社員になれなかった「非正規」のほうが苦しいんだ、という議論は、それこそ赤木氏が(?)苦しめられてきたとされている「悲劇の累進性」ではないのでしょうか。赤木氏は大野更紗の主宰する「うちゅうじんの集い」にパネリストとして出席していますが、大野や他の出演者は、このような赤木氏の態度に疑問を持たないのでしょうか。

第五の問題点は、これも城繁幸と共通するのですが、解雇規制の緩和などが、直ちに自分に都合のいいような自体を引き起こすという幻想、信仰に浸っているという点です。これについては私の2回の城繁幸批判で詳述したので割愛します。

第六の問題点は、第二~五の問題点により、赤木氏が自らの「苦境」ないし「生きづらさ」を担保に論壇での立ち位置を得たことから抜け出せないでいること、そしてそのような態度を続けることによって自らの価値が得られるという錯覚が見られることです。

第七の問題点は、「非正規」と「正規」の間の橋渡しをいかにして行うかという実務的、あるいは制度的な視座や、あるいは多様な労働者側のニーズにどう対応するのかということが欠けていることです。例えば山梨県で派遣会社を経営する一方で、派遣労働に関してブログや勉強会などで発言ないし意見の集約を行っている出井智将は、著書『派遣鳴動』(日経BP社)の中で、不正が横行する人材派遣業界のレベルの低さを嘆きつつも、他方で派遣で働きたいという人のニーズや、あるいは高校、大学などの卒業後の就労が難しかった人たちなどの雇用の受け皿としての人材派遣の重要性を書いています(今野と出井の本は後日ブロマガで書評する予定です)。そして、ニーズの多様化などに対応するために必要なのは、流動化よりも先に適切な規制、ルールの策定でしょう。

しかし昨年10月より施行された労働者派遣法のおいては、徒に「派遣」を悪とする議論から、「生業収入ないし世帯収入年収500万円以上」「雇用保険の適用を受けない学生」「60歳以上の高齢者」ではない人は短期の派遣の仕事をすることができない(http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/haken-shoukai/kaisei/02.html )という疑問の多い「規制」がなされています。それによって失業した人などが一時的な収入を得ることが難しくなっているのもまた事実なのですが、赤木氏の議論は、このような構造をますます強化させかねないものではないでしょうか。

赤木氏は「非正規」の人たちが、非正規のままでも生きていけるような収入や社会保障を望んでいるのか?それとも「非正規」がみんな「正規」になればいいのか?そして「正規」はいったん落ちたらそのまま赤木氏に「Welcome to our world!!」と憎悪を持った目で向けられなければならないのか?赤木氏の言説は、果たして何を目指しているのか。そこを問い直すべきではないでしょうか。

そして第八の問題点は、赤木氏もまた、根拠に基づかない劣化言説の担保者になっていることです。赤木氏はオタク関係のTogetterのまとめに登場したりするときに、現代においてはまとめサイトが絶対的な地位を持っており、それに対する反逆は許されないということを述べていたりします。これは、同人作家としての私から見れば、極めて度し難い発言です。コミケコミティア、あるいは種々の同人誌即売会においては、「テンプレート通り」な作品意外にも、様々な視点や、二次創作なら原作の解釈に基づいた作品がたくさん見受けられます。特に東方は、まがりなりにも二次創作では最大規模のジャンルであり、メロンブックスとらのあななどに委託されるような同人誌だけを見てもかなり見方が異なることが分かると思います。そうでもない限り、弊サークルの『幻想論壇案内』など、東方の同人誌やそのほかの二次創作のレビューという同人誌が少なくない数発行される理由は乏しいでしょう。

赤木氏は、現在の正社員層がみんな「非正規」になれば、相対的に「非正規」の立場がよくなり、自分は「生きやすさ」を獲得できるのだと言うことを、「丸山」論考以降現在に至るまで述べてきました。しかし、それは一体誰のためなのでしょうか。少なくとも途中で採り上げたTogetterのコメント欄での書き込みを見る限りでは、おそらく赤木氏自身のためと見たほうがいいのかもしれません。ただ自分のためだけに、暴力的な言説を展開することは、まあ数万歩譲って許されるものかもしれません。

しかし赤木氏が、仮にも論客として生計を立てたいと考えるならば、現在の赤木氏のあり方はものすごく大きな問題を含んでいるとしか言えません。そもそも赤木氏の発言は、雇用の問題と、自分の生活の問題が、意味の不明瞭な形でごちゃ混ぜになっており、市民としての責任や公共性に著しく欠けるものでしかありません。雇用論壇における自らの立ち位置を温存することを焦って、態度を先鋭化させることは、かえって非正規雇用者への偏見を促進させ、同時により若い世代を苦しめる結果になりはしまいか。

赤木氏は、ロスジェネ論客やその周辺(非モテ系など)の問題点のかなりの多くの部分を抱えた、ある種の「象徴」と言えるのかもしれません。現在の赤木氏に、果たして、その問題点に気付き、いち早くそこから脱却し、同世代の論客に何らかのロールモデルを示すことができるのでしょうか?

『検証・格差論』第11章 ロスジェネ・メディアの世代認識――『AERA』に見るロスジェネ世代の特別視と他世代への攻撃性に関する考察

はじめに

本書は2012年にAmazonにてオリジナルの電子書籍として刊行し、2015年に同人誌『検証・格差論』に収録したものですが、近年の言論状況を鑑み、本稿を同書の無料サンプルとして公開いたします。「ロスジェネ」がいかに上下の世代を叩き、持ち上げてきたかの記録です。

なお、『検証・格差論』は下記のサイトで電子書籍として配信しております。

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1. 問題意識

朝日新聞が、主に1970年代中頃~1980年代初期生まれの、所謂「就職氷河期」に大学を卒業した世代を「ロストジェネレーション」と呼び、その世代が抱える社会的な問題を可視化したのは2007年の話である。「ロストジェネレーション」はいつしか「ロスジェネ」という呼称に短縮され、この世代の現状と、そして可能性が様々なところで論じられるようになった。『ロスジェネ』(かもがわ出版)という、名付けられた世代名を冠する雑誌まで登場したほどだ。

それから5年の歳月が流れた。この世代の労働環境をめぐる言説は、例えば毎日新聞の「リアル30's」にも見られるように現在も論じられ続けている。またこの世代向けに作られたと思われる企画もいくつか見かけるようになった。他方で、より下の世代に対しては、「ゆとり世代」や「新型うつ」などのキーワードでバッシングの対象になることが多く、従来「若者向け」と呼ばれる、例えば「週刊SPA!」や「週刊プレイボーイ」なども、「ゆとり世代」と呼ばれる世代を揶揄的に採り上げたり、あるいは明確にバッシングするような記事を載せるようになっている。

「若者向け」のメディアは、ロスジェネ、あるいは団塊ジュニア向けに特化した情報を載せるようになる一方で、さらに若い世代に向けたメディアはかなり乏しい。人口が少ないので読者層や商機として認識されないのはある意味必然だ、という見方もできるかもしれないが、より若い世代の抱える社会的問題が、ロスジェネという存在を前にして論じられにくくなる状況は、社会にとってポジティブなものであるとは言い難い。
本稿では、ロスジェネ世代向けに製作された記事を検証することにより、現状の「若者向け」言論メディアの状況を照射し、「ロスジェネ」という概念が何を残したのかについて述べていくこととしたい。

2. ロスジェネ・メディアとしての『AERA

雑誌『ロスジェネ』は、「超左翼マガジン」を自称し、「右翼と左翼は手を結べるか?」など、主に政治思想・社会思想分野に特化した誌面作りをしてきた。同誌は2008年に秋葉原駅前で起こった無差別殺傷事件を「テロ」と呼び、別冊を作るなどしている。

橋本努は、同誌と、そしてロスジェネ世代の論客による格差論について、ロスジェネ世代とさらに下の世代が製作し、オピニオン・政策提言的傾向が強い雑誌『POSSE』との比較で次のように述べている。

時代を映す鏡としては、『ロスジェネ』的な実存のセンスは、広範にみられた。当時は、若者たちの労働運動がにわかに台頭した時期であったが、その一方で、小林多喜二の『蟹工船』がにわかにブームとなっている。もはや事態は、文学的な表現によって絶望を昇華するしかないという感覚も、この時期に広がった。(橋本努[2012]。同様の記述は、橋本の『ロスト近代』にもあり)

橋本の指摘するとおり、ロスジェネ系統の言説においては、統計や綿密なルポルタージュに基づいた報告や政策提言よりも、同世代、そして上の世代や正社員層の「実存」に訴えかけたり、論者によっては攻撃したりというものが目立った。そしてそれは、ロスジェネと名付けられた世代の不安から来るものであったように見える。

さて、このような言説は、現在はどのようになっているのだろうか。私が着目したのは、『AERA』2012年9月3日号の記事「「希望は橋下」30代の渇望――なぜ僕たちは橋下徹にひかれるのか」(太田匡彦)である。「橋下」とは言うまでもなく現・大阪市長橋下徹のことである。この記事では、非正規雇用などで困窮した状況に置かれていたり、あるいは既存の政治に疑問を持ったりしているロスジェネ世代(なお、この記事では、ロスジェネ世代について、明確に1972~1982年生まれの世代だとしている。太田匡彦[2012]p.12・4段目)が橋下を支持する様を描いている。この記事においては、橋下がロスジェネ世代に支持される理由を《世代の記憶》(太田、前掲、p.15)に求めている。

この記事においては、ロスジェネ(30代)と40代・50代、そして60代に取ったとされるアンケートの結果も掲載されている。しかしこのアンケートは、例えばサンプル数は、30代、40・50代、60代について、それぞれ300人、100人、100人となっており、しかも30代については正社員100人、非正規雇用者100人、主婦・無職100人という、社会調査法の基礎すら知らないのではないかと疑ってしまうようなものであり、またカイ二乗検定など統計学的な処理をした形跡もなく、おおよそ多角的な視座に欠けているとしか言えない。しかもこの記事は、より若い世代を無視している。

しかし『AERA』がこのような記事を掲載するのは、今までの『AERA』がロスジェネ世代やその多くがロスジェネ世代にあたるとされる団塊ジュニア世代、そしてその直前直下の世代にとってきた態度を見れば、決して突飛なことではない。むしろ『AERA』の今までの態度は、ロスジェネ世代向けのメディア(以下、「ロスジェネ・メディア」と表すこととする)の態度に典型的とも言える。

AERA』については、今までも様々な視点から分析されることはあったが、それらの分析は総じて『AERA』を女性誌と見なした上でのものが主流であった。かつて中森明夫が同誌で描かれる女性の問題を「アエラ問題」と表現したことは有名であるが(中森明夫[1999])、『AERA』について、主にバブル世代の女性のライフスタイルを採り上げ、扇動するメディアと見なす向きは現在も多い。最近の例だと、桐山秀樹の『「アエラ族」の憂鬱――「バリキャリ」「女尊男卑」で女は幸せになったか』(PHP研究所、2009年9月)や、速水健朗の「放射能から閉経まで 女性誌アエラ」の研究」(『新潮45』2012年4月号)などが同様の視点で同誌を論じている。

ただし桐山の書籍は、記事と言うよりは、記事に扇動される女性への説教という色彩の強い書籍であり、若い女性への安直な決めつけが多く見られる。他方で速水の論考は、同誌2011年3月28号の「放射能がくる」と煽った表紙が登場したのは必然だったとし、放射能汚染という、東北地方太平洋沖地震以降の重要なテーマが、同誌の文脈に組み込まれることにより、不安を煽る一つのガジェットとして機能していく様を描いた、優良なメディア論となっている。

しかし速水の論考は、一つだけ重大な誤りを含んでいる。次のくだりである。

最近の誌面に出てくるカタカナ名前の女性に、30代が減り、40代が増えてきているのは、雑誌とともに読者も歳をとってきているからだ。いまの30代は“ロスジェネ世代”である。アエラのノリには一歩引いているはずだ。バブル崩壊後の就職氷河期に社会に出たこの層は、アエラ世代のように楽にはキャリアを積ませてもらえなかった世代である。むしろ、いまでも生活レベルを落とさずにやっていこうと考えているアエラ世代を“バブル世代”と、疎ましく思っている。アエラが、今のセンスでこの世代を汲み取っていくのは難しいだろう。(速水健朗[2012]p.89)

しかし、実のところは『AERA』は、団塊ジュニア世代、後にロスジェネ世代に焦点を当てた記事も、現在に至るまで掲載しており、先ほど採り上げた「「希望は橋下」30代の渇望」もその流れに属するものである。そしてここに至るまで、『AERA』の団塊ジュニア・ロスジェネ言説は様々な展開を見せてきた。

3. 「AERA団塊ジュニア世代記事の傾向

以前より『AERA』は、20代・30代の若年層の行動を揶揄的に採り上げることがあった。そしてその多くがいくつかの事例を並べ立てて、このような事例がある、ということを紹介し、それをさも若年層全体に広がっている感覚であるかのように論じ、囲み記事では有名人の談話を載せたりしている。また、既往の言説において指摘されている『AERA』の女性記事の特徴(「カタカナ名前」の使用など)は、若者記事・世代記事にも見ることができる。しかし、2001年頃までの記事は、例えば「感情喪失の20・30代――嫉妬も怨みも拗ねるもわからない」(藤生京子、1999年6月28日号)、「ストレス弱者 30代の叫び――価値観転換期に悩む「弱い世代」」(堀田浩一、2001年8月27日号)、「アリより貯める20代の貧乏感――年収600万円でも悩むバーチャル「金欠」」(向井香、2002年7月22日号)と、「20代」「30代」といった年齢層、もしくは「若者よ 孤独力をつけよう――「ひとりぼっち」に耐えられない」(大和久将志、2002年7月22日号)などのように、どの年代を指すのか不明瞭な「若者」という言葉が使われることが多かった。

そのような記事が転機を迎えるのが、「元気ないぞ!団塊Jr世代――オヤジほど自分を主張しきれない」(宇都宮健太朗、2002年10月7日号)である。私が観測した限りでは、この記事で初めて「団塊ジュニア」という呼称を用いた記事が登場する。そしてこの記事で既に、『AERA』の団塊ジュニア世代言説、そしてロスジェネ言説のフォーマットができあがっていると見ていい。

既存の女性言説もしくはそれと同様の手法が使われた若者言説と比較した、団塊ジュニア・ロスジェネ言説の特徴として次のようなものが挙げられる。第一に、時代背景を強調していること。例えば先の「元気ないぞ!~」にも、次のようなくだりが見られる。

筆者注:常に競争に晒され、右肩上がりの成長を支えたとされる団塊の世代と比較して)「団塊ジュニア」はどうか。数は多いが、団塊世代とは対照的に存在感は希薄。なんだか元気がなく、疲れていて、冷めている。

じつは記者もそのひとりで実感しているのだが、それには、

「競争につぐ競争だったのに一度もおいしい目にあったことがない」
という半生が影響している。(宇都宮健太朗[2002]p.41)

このような、団塊ジュニア世代(後のロスジェネ)は、競争に晒されながらも常に割を食らい続けてきた世代であるという「認識」が、現在に至るまで、『AERA』の団塊ジュニア言説・ロスジェネ言説を支えるイデオロギーになっている。

第二に、年表を使った記事が頻出すること。例えば「元気ないぞ!~」においては、1973年生まれのライフコースと、その年代に起こった流行や風俗、そして社会的事件などが掲載される。団塊ジュニア世代(及びロスジェネ)はこういう時代背景を育ってきたということを強調するための「年表」である。

その後しばらくは、『AERA』においては、それまで女性言説の手法を用いていた若者言説に(そして女性言説にも)、先ほど指摘したような団塊ジュニア言説の手法が導入されるようになる。もちろん、「20代おおう「心はニート」――自信過小、自分探し世代の憂鬱」(内山洋紀、2004年11月8日号)といった、既存の「女性言説のような若者言説」もあり、「スネかじリーマン――年収450万円でも仕送りもらう20代」(松田亜依、2003年9月15日号)や「20代の「ガチ」ナショナリズム――ポストバブル10年 若者は国に何を思う」(内山洋紀、福井洋平、2004年8月30日号)などの若者バッシング記事も掲載されてはいる(特に前者は、記事に登場する20代の男性を「くん」付けで記載するなど、さも小学生でも採り上げているような体たらくだ)。

しかし、例えば「「30歳で成人式」がいい――自信過小、自分探し世代が「オトナ」になるとき」(内山洋紀、2005年2月21日号)には、『AERA』ではおなじみの「カタカナ名前」の若年者も登場するが、pp.14-15には1975年生まれの人のライフコースが、「金儲け・効率」と「ゆとり・こころ」の間で揺れ動いてきたかのように描いている。また次のような「世代認識」も出てくる。

そんな話し合いの中から、伊藤(筆者注:ミュージシャンの伊藤忠之)さんらが感じている30歳像は、「(ベビーブーム前後で)幼少期から競争を強いられてきたけど、(終身雇用のような)従来の価値観が通用しなくなり、将来に不安を感じつつも、現状に甘んじて大人になりきれていない世代」だ。(内山洋紀[2005]p.13)

ここでも、やはり「競争を強いられてきたが、気付いたら終身雇用などが崩壊しており、割を食った(故に大人になれない)」という「認識」が登場している。

そして「ロスジェネ」という言葉が初めて登場するのは、2007年10月29日号の「ロスジェネって言うな――25~35歳覆う不遇感格差」(木村恵子、加藤美穂、2007年10月29日号)である。この記事では、25歳~35歳、生年で言うと1972年~1982年生まれの世代の「不遇感」について述べている(名前はおおよそカタカナである)。冒頭に出てくるのは、27歳の、慶應義塾大学卒業の外資コンサルティング会社勤務の男性を《絶対に仲間ではない》(木村恵子、加藤美穂[2007]p.16)と認識したPR会社勤務の32歳の女性であるが、他方で別の26歳の派遣事務の女性は、30代前半は「バブル臭」を持っており、「ロスジェネ仲間」と言われてもピンと来ないと言うなど、「世代内での世代間対立」を描いたものとなっている。そしてpp.18-19には、1972~1982年生まれの有名人と、それぞれの年代に生まれた人がどのようなライフコースを歩んできたかというのが描かれる。

しかし年表においても、例えば1972~1974年生まれに対しては「受験も就職も難世代」と書かれる一方で、「中高時代はバブル期。教育には金をかけられた世代」とも書き、その直上には1979~1982年生まれについて「バブルは小学生以前に過ぎ去った世代」と書くなど、それぞれの世代の「不遇の原因」が書かれている。年代で暴力的に輪切りにすることに抵抗感を感じている様子は一切なく、この世代が一様に「不遇」であると決めつける様にも問題があるだろう。

この記事の中には次のような文言が出てくる。

だが、ロスジェネだって一枚岩ではない。アエラネットではロスジェネ世代188人に聞いたところ、「10年ひとくくりには抵抗がある」という声が4割を占め、過半数の人が生まれた数年の違いで、全然違う時代を生きてきたと感じ、さらに「自分の年代こそが真の不遇世代」と訴えていた。(木村、加藤、前掲、p.19)

さらにこの記事では、25歳周辺(R25)・30歳周辺(R30)・35歳周辺(R35)代表の「識者」による談話記事が掲載されている(R25は村田早耶香、R30阿部真大、R35は柴崎友香)。特に阿部は、次のような世代観を臆面もなく表出させている。

僕たち「ナナロク」世代は、上世代とも下世代とも違う。上を見ると、なんであんなにプラズマテレビをほしがるの?妙にワインの銘柄に詳しいのはなぜ?と思うし、下を見ると、もっと稼ごうと思えよ、カップルでコンビニ弁当食べて満足するなよと思う。上のバブル的価値観と、下の自分探し的価値観に挟まれた中間的感覚を持ってるんでしょうね。(木村、加藤、前掲、p.19)

このような世代観は、上下の世代と自分たちを比較し、自分たちがもっとも「不遇」ないし「不幸」である、もう少し汎用的な表現で言えば「特別」であるというために作り出された「闘争のための世代論」である。みんながみんな阿部のような感覚や認識を持っているわけではないだろうに、それを一般化してしまうことは果たして社会学者として正しい行為と言えるのだろうか。

AERA』のロスジェネ言説の多くは、彼らの晒されている「格差」を、経済的なものと言うよりも感覚的なものとして捉え、そしてこの世代の「不遇感」を強調するような記事をいくつか出している。これは従前から『AERA』が行ってきた団塊ジュニア言説の流れを引き継いでおり、『AERA』は団塊ジュニア世代、そしてロスジェネに対して、不安を共有するような記事を作ることにより共感を引き出し、読者層に組み込もうとするという動機が働いているように見える。「ロスジェネ」を冠した記事で、まともに労働問題を取り扱った記事は、「ロスジェネ派遣の言い分――「船場吉兆」だけじゃない」(木村恵子、2008年2月11日号)くらいであろう。

そしてこのような記事は、直前直下の世代に対して、過剰な暴力性を発揮するのだが、これについては次節以降で述べることとする。

4. 持ち上げられるロスジェネ

AERA』のロスジェネ言説は、この世代の「不遇感」を強調する一方で、同時にこの世代の「可能性」を強調する言説もいくつか出している。このような記事は大別して2つに別れ、ひとつは様々な分野で活躍しているロスジェネを採り上げるもの、もうひとつは「不遇な境遇を生きてきた」ロスジェネ一般の可能性について論じるというもの。前者としては、2008年6月9日号の「ロスジェネ「一発転身」――氷河期世代の幸せ探し」(木村恵子、2008年6月9日号)と「もうロスジェネとは言わせない――失ったからこそ変えられる」(澤田晃宏、2009年10月19日号)、後者としては、2008年12月29日・2009年1月5日合併号の「ロスジェネがバブル超える日――現役世代それぞれの「10年後」」(太田匡彦、福山栄子、鈴木繁、2008年12月29日・2009年1月5日合併号)、「入社10年目の進化する誇り――就職氷河期世代が運命づけたそれぞれの道」(太田匡彦、2009年11月9日号)が挙げられる。

前者の記事は、基本的に様々な分野の先駆者を紹介しており、ロスジェネというのは単に紹介する人たちに共通する特徴くらいのものでしかない。ただしこのような記事にも、ロスジェネについて「割を食った世代ゆえに挑戦する気概がある」という認識が登場する(《でも、考え方一つで人生は変わる。むしろその不遇をバネに、一発転身を果たして夢を叶えようとする人たちがいる》木村恵子[2008]p.17など)ので注意が必要ではある。

問題は後者である。桐山秀樹は、後者に属する「ロスジェネがバブル超える日」について次のように述べている。

ところが、石原(筆者注:コラムニストの石原壮一郎。石原も2007年10月に『30女という病――アエラを読んでしまう私の悲劇』(講談社)という書籍を出している)氏が本を出した二年前から、『AERA』読者の中でも、急激に増殖してきた世代の女性たちがいる。

就職氷河期に大学を卒業し、学校を出てからは好況知らずという、ロストジェネレーション(ロスジェネ)世代の女性たちだ。

この世代の存在も『AERA』の女性記事は無視できなくなった。そこで、『AERA』は、ロスジェネ世代の若い読者も部数増に取り込みたいのか、「ロスジェネがバブルを超える日」(二〇〇八年十二月二十九日・二〇〇九年一月五日号)と、世代間の路線対立を煽ろうとしているように思われる。

「打たれ強くて、前向き」という、不況に強いこの世代の職場や社会への進出を前に、「まだまだ若いという病」に罹患したかつての「アエラ族」は、自身の年齢を実感させるものとして非常に怖れるのだ。(桐山秀樹[2009]pp.33-34)

しかし、「ロスジェネがバブル超える日」などの、ロスジェネの会社員一般について書かれた記事は、むしろロスジェネに有利なように書かれている。桐山の認識に従えばこのような記事がバブル世代を叩くのも、バブル世代に多くいると見なされる「アエラ族」に危機感を持たせるためということになるかもしれないが、むしろこの種の記事は、『AERA』が続けてきた(そして桐山が見落としていた)団塊ジュニア・ロスジェネ言説の流れで考えるとわかりやすい。

例えば「ロスジェネがバブル超える日」においては、30代は見出しで《学校出てから好況知らず 打たれ強くて前向き》(太田匡彦、福山栄子、鈴木繁[2008]p.14)とされており、この記事では30代で活躍する人が「実名で」採り上げられている。一方40代に対しては、《根拠なき自信と突進力 ただし「ブランドに弱い」》(太田ほか、前掲、p.17)とされ、40代の悩める人たちが「カタカナ名前で」採り上げられているのだ。

AERA』においてカタカナ名前が用いられるのは、特定の社会集団を揶揄的に採り上げる場合であり、「実名で」採り上げられた30代と、「カタカナ名前で」採り上げられた40代を比較したときに、後者は記事の態度から、最初から貶めることを目的に書かれていると判断できる。つまり、「優れている30代」と「劣っている40代」を比較して、40代のほうが劣っているとしているのだ。要するに「劣っているほうが劣っている」というトートロジーでしかない。

この記事では50代も採り上げられている。しかしこちらも、見出しが《ロスジェネに軍配の部長 自らは転勤を思案中》となっている通り、30代を引き立てる存在でしかない。ここに登場する50代は、「カタカナ名前」ではあるが、40代のように揶揄的に採り上げられているわけではない。そしてこの部分でも、40代はバッシングの対象となる。例えば矢幡洋のコメントとして次のように書いている。

一方、年下にあたる40代後半の「新人類」世代は中年以後、存在感が薄くなった。

「その下の40代前半、バブル入社世代が強烈すぎるんです」

と矢幡さんはみている。

「この世代はすべてを娯楽として消費の対象にしてきた。企業ですら自己実現のためにあると本気で思っている人が多い」(太田ほか、前掲、p.18)

新人類世代が中年以降に存在感を失ったのは、40代前半のバブル入社世代が原因であるとしている。この部分では他にも三浦展が、40代を指して《まだバブルが続いている》(太田ほか、前掲、p.19)と述べており、50代を採り上げるはずの部分で、40代を叩き続けている。一方ロスジェネに対しては、このような評価をさせている。

翻って、ロスジェネ世代の正社員組はどうか。バブル入社組に厳しいヤスヒロ部長も、ロスジェネには一目置いている。

「裸一貫、自分の力で勝負するというヤツが多いね。特に女性は恐ろしく優秀な子が入社している。英語はペラペラ。試験は高得点。応対はそつがない。聞いてみると、給与が高く男女格差の少ない保険会社を希望していたのに、保険業界が採用を手控えたのでやむなくウチにということだったらしい」

可愛がっていた部下の一人は、通関士になって退社したが、

「彼女にとってはそのほうがよかったんじゃないかな。古い体質の会社だから」
同じ退社組なのに、バブル組とは評価にえらい格差がある。

「不況を体験しているから、地に足がついている」(太田ほか、前掲、p.19)

このように、50代にも30代を高く評価させているのである。この部分はもはや50代について述べた部分ではなく、50代をダシにして40代を叩き、30代を持ち上げる部分と化しているのだ。従ってこの記事全体の主要な読者層は、30代と考えるのが適切だろう。そして40代を仮想敵としているのである。

「入社10年目の進化する誇り」にしても、前線で活躍する30代の人たちを、やはり「実名で」紹介し、横には囲み記事として、渡邉美樹、海老原嗣生和田秀樹にこの世代の「強さ」を解説させている。特に渡邉は、この記事で採り上げられている、自分が会長を務めるワタミ最高財務責任者CFO)である32歳の木村敏晴を引き合いに出して、次のように述べている。

木村たちの世代が大学を卒業する時は非常な就職氷河期だった。一方で投資ファンド外資系金融機関に入った同期や友人のなかには、大変な金を稼ぐようなのも出てきた。ところが昨年、リーマン・ショックが起きた。就職時に突き詰めて将来を考えさせられ、さらに経済の大きなパラダイムチェンジを10年目前後で味わったわけです。そのためかこの世代は、お金では買えない価値を見いだそうという意識を非常に強く持っている。だからいい人材がそろっているのだと思います。その意味で、この上下の世代に採りたいと思う人材はいません。(太田匡彦[2009]p.49)

《この上下の世代に採りたいと思う人材はいません》とはずいぶんな物言いである。渡邉は就職氷河期世代を、やはり統計的な根拠のない単純な世代論で持ち上げ、この世代の「可能性」を語ると同時に、その上下の世代を攻撃している。

AERA』のロスジェネ言説は、30代を持ち上げることにおいて、その直前直下の世代を攻撃することをいとわない。自分たちの世代を特別視することにより、30代を中心とするロスジェネに「癒やし」もしくは「自信」を提供するという行為を行ってきた。
ここまで、『AERA』に「団塊ジュニア」という言葉が登場してから、「ロスジェネ」という言葉が出てくるまでの期間、すなわち2002~2007年頃においては、団塊ジュニアないしロスジェネ言説は、彼らの「不安」ないし「不遇感」を強調する記事を書いてきたことを指摘した。そして本節で採り上げた、ロスジェネの「可能性」を強調する言説は、2008年半ば~2009年頃に見られるものである。団塊ジュニアないしロスジェネに対する記事は、2007年から2009年にかけて「不安」「不遇感」から「希望」「可能性」を示すような記事になったが、そこにおいては、特に40代へのバッシングを伴っていた。

ロスジェネ・メディアにおいては、バブル世代はある種の「逃げ切り」世代として、揶揄やバッシングの対象になることが多い。

5. 敵としてのゆとり世代

それでは、2008年前半~半ば頃においてはどのような傾向があったのだろうか?それは、ロスジェネ・メディアが揶揄やバッシングの対象とするもう一つの世代、すなわち直下の「ゆとり世代」へのネガティブ・キャンペーンを行っていたのだ。
ロスジェネ・メディアが「バブル世代」と「ゆとり世代」を仮想敵として揶揄的に採り上げたり、あるいはバッシングしたりという傾向は、広汎に見られるものである。例えば「ダイヤモンドオンライン」に連載されていた、自らを「氷河期くん」と規定する、梅田カズヒコの連載「バブルさんとゆとりちゃん」があるが、これもロスジェネの上下の世代を、自らのインタビューを絶対視し、それを科学的に体系化することなく「特徴」を決めつけているという問題の大きい連載である。

閑話休題、『AERA』において、ロスジェネ(1972~1982年生まれ)のさらに下の世代が「若者」として採り上げられることは、『AERA』がロスジェネ・メディアとしての性質をあらわにする前からあった。例えば「かしずく女の時代――女を「装う」女の焦り」(木村恵子、高崎真規子、2004年10月4日号。ちなみにこの記事も「年表つき」である)では、10代・20代の女性の結婚願望について、《お受験からお稽古、ファッションと小さいころから人の目を意識するように教育されている》(木村恵子、高崎真規子[2004]p.21)とし、それに一定の理解を示しつつも、《演出の腕は上がった。でもそれが本当の充実感につながるのだろうか》(木村、高崎、前掲、p.21)と憂慮してみせている。

本格的に「ゆとり世代」をバッシングするのが、「トンデモ内定社員――「ゆとり」チルドレンの就活」(坂井浩和、2007年4月16日号。この記事も「年表つき」)である。「ゆとり世代」の新入社員をバッシングするような記事が出てくるようになるのは2008年頃であり(後藤和智[2011])、この記事はその傾向を若干先取りしている感があるが、この記事は、なんと入社する前から、これから入ってくるであろう若年者に対し「トンデモ」と断じている恐るべき記事だ。しかも「トンデモ」と目された世代の人間への取材は一切ない。年表にも、「ゆとり教育」により《円周率が3となる》(坂井浩和[2007]p.16)などと事実に反することが書かれている。ただし、「デジタルプアの見えない壁――携帯オンリーが陥る下流スパイラル」(有吉由香、2007年5月28日号)のように、論じられている世代の人間に対する取材が行われていたり、また安直な決めつけを避けてデータを使っている記事もある。

それでは、ロスジェネ・メディアと化した後の『AERA』における「ゆとり世代」、というよりはロスジェネ直下の世代の扱い方はどうだろうか。「あと1年の不遇感――ロスジェネとポスト・ロスジェネ」(木村恵子、福井洋平、2008年1月21日号)は、2005年に就職できなかった世代があと1年遅く生まれていたら、《10万1900人》(木村恵子、福井洋平[2008]p.14)もの求人が増えていたと書き出す。そしてそこでは、特に20代後半の人たち(カタカナ名前)が、自分たちの世代は就職にありつけず、ありつけたとしても非正規だったり、もしくは正社員でも過酷な労働環境が待ち構えているのに、下の世代は就職も楽そうで、そのくせ能力が低いと嘆かれている。この記事においては、一応「ポスロス」と略されている世代の人間も取材されているが(24歳)、本当に下の世代の就職活動が楽勝だったのかについては統計的に立証していない。ロスジェネが「ポスロス」に恨み節をぶつけるようなものになっている。

そしてこの記事のpp.18-19では「ポスロス」の欠点について述べられる。その直前の文章を引用しよう。

ロスジェネとポスト・ロスジェネ。本当に「ロスト」しているのはどちらなのか。答えは簡単ではないが、一見得をしているポスロスの落とし穴を次ページに掲載した。(木村、福井、前掲、p.17)

その《落とし穴》とはそれは安定志向なのだという。『AERA』が後のロスジェネの先駆者を採り上げる記事などで、「不遇を受けてきたから強い」というイデオロギーを煽っていることを考えると、『AERA』が「ポスロス」とやらの安定志向を嘆くのも無理からぬことと言うことができる。

ところでこの記事においては、後藤和智が次のように述べている。

「正社員になりづらかったという環境もなりやすいという環境も、自分たちのせいでできたものではなく上の世代から与えられたもの。全員が生活を不安定にさせられている世代なのに、内ゲバしてどうするんですか」(木村、福井、前掲、p.19)

しかし、ロスジェネ・メディアにとって、自分の直下の世代を叩くことは、たとい同じ20代であっても、《内ゲバ》などではない。自分より能力が低いにも関わらず楽に就職できたとされる直下の世代は明確な「敵」なのだ。

それを象徴するかのような記事が、そのおよそ4ヶ月後に掲載される。「「ゆとり社員」で職場崩壊――新入社員教育を見直す企業」(太田匡彦、野村美絵、2008年5月19日号)と「大人免疫力が低すぎる――「売り手市場」のゆとり世代という新人種」(大波綾、2008年6月23日号)だ。前者については、人材育成担当者などの「意見」に占められており、採り上げられている当事者である新入社員(世代)への聞き取りは一切ない。また、次のように、就職氷河期世代と比べて昨今の新入社員が劣っているという記述も出てくる。ちなみに《バブル入社組》とは、昨今の新入社員のことを指す(!)。

就職氷河期に入社してきた、いわゆるロストジェネレーション。この世代は門戸を閉ざした企業の門前で正座をさせられ、働くとは何か、どんな働き于になりたいのか必死に自問自答をしてきた。人社後、自我の強さは気になるが、目的意識の高い即戦力になった。

一方のバブル入社組、全開の門戸に向かって歩いているうちに、街頭で配られるティッシュのように内定をもらってきた。「入ってやった」という感覚。「残業はどのくらいあるか」「有給はちゃんと取れるのか」が大きな関心事。

「私に何をしてくれるの?」というスタンスで研修にやってくる。(太田匡彦、野村美絵[2008]pp.16-17)

もちろん、このくだりにあるような、《全開の門戸》とか《街頭で配られるティッシュのように内定をもらってきた》ということがデータを使って示されているわけではなく、単なるイメージでしかない。しかもさりげなくロスジェネを《目的意識の高い即戦力》と書いているあたり、『AERA』の「裏の想定読者層」であるロスジェネを意識したものとなっている。

先に採り上げた一連の記事では、『シュガー社員が会社を溶かす』著者として有名な田北百樹子の談話記事があるほか(田北の問題点については、後藤和智[2012]を参照されたし)、「「ゆとり社員」で職場崩壊」では「プロレス研修」と称されている研修が紹介されている。「大人免疫力が低すぎる」では前川孝雄が《大人免疫力をつける六つの心得》(大波綾[2008]p.30)として《ネット、メールよりリアルコミュニケーション重視》や《上司からの誘いには「よろこんで!」》などが挙げられているほか、囲み記事では三田紀房が《大人に慣れるには「若者や、まずはビールを飲め」》(大波、前掲、p.31)と述べている通り、「旧世代」的な価値観が召還される。

この通り、2008年前半の『AERA』を見ると、ロスジェネを採り上げる記事はいったん身を潜め、その直下の世代をバッシングするような記事が出てくるようになる。このような記事は、少なくとも『AERA』においては、ロスジェネが新入社員の頃にはなかったものである。もちろん、「ゆとり教育」という、若年層を叩くために都合のいいバズワードが普及したことも原因として挙げることができるだろうが、一連のバッシングの中にはロスジェネ世代による語りもあり、少なくともロスジェネ・メディアとしての『AERA』にとってはロスジェネ直下の世代が「敵」と見なされている可能性があることが窺える。

ちなみにリーマン・ショック後には「第2ロスジェネが大発生する――就職氷河期がまたやってくる」(大波綾、2008年11月10日号)という記事が掲載される。しかしこの記事も、大筋では就職活動世代の「大手志向」を批判するものである。従前の記事に見られた極端なバッシングになっているわけではないのが救いか。

6. まとめ――希望は蓮舫か、橋下か

ここまで、『AERA』をロスジェネ・メディアと再定義し、『AERA』に「団塊ジュニア」という枠組みが採用された2002年から、それが「ロスジェネ」に変容したあとの2009年頃までの記事を見てきた。2007年頃までの『AERA』の団塊ジュニアないしロスジェネに関する言説は、この世代の「自信喪失」「不遇感」を採り上げ、特に「ロスジェネ」論の初期においてはどの世代が「不幸」であるかを競うような記事を作った。その後は2008年初め頃は直下の世代、そして2008年半ば頃から2009年にかけては直前の世代を叩くことにより、自らの世代の優位性を誇示しようとした。

「不幸自慢」による不安感の共有から、直前直下の世代へのバッシングに至るという道は、ロスジェネ・メディアとしての『AERA』の暴力性と弱みを示しているように思える。それは自らの「不遇」を嘆く一方で、「逆境の中を生きてきたから強い」と直前直後の世代に対して自らの世代の特別性を示そうとする。それは特定世代(ロスジェネ!)への「癒やし」になったとしても、普遍的な視座や政策を生み出すものではない。

ここから「ロスジェネ」論以降の「若者向け」報道・言説のあり方について考えてみよう。本稿の冒頭でも述べたとおり、「ロスジェネ」論が生まれて以降は、この世代が「若者」として採り上げられることはあっても、その直下の世代は「ゆとり世代」などの言葉で叩かれることが多い。そしてそれには多くのロスジェネ・メディアが荷担している(雑誌『ロスジェネ』は荷担していないが)。冒頭で引いた今野晴貴の嘆きに見られるとおり、メディアで採り上げられる「若者」ないし「若手論客」とはもっぱらロスジェネであり、現実の若い世代はないがしろにされている。

これは少なからぬロスジェネ・メディア、ないしロスジェネ論客が、「絶望」「不幸」を楯にとって上の世代のメディアや論客に、「若者」としての「異議申し立て」を行った一方で、橋本努の指摘するとおり、ほとんどの言説が実存をめぐる表出や闘争に終始したことと無関係ではないだろう。この世代のメディアや論客による「異議申し立て」は、かえってメディアを通じてより下の世代の意見を吸い上げることを困難にしてしまったという感がある。

このことは、「異議申し立て」という行為が、その当事者世代にとってはそれなりに効果がある――失業率の改善などの統計上の効果がなくとも、その世代を継続的に採り上げるメディアが現れる――が、自らのメディアを持たない世代、つまり下の世代の「異議申し立て」を困難にすると言い換えることができる。このような不幸なスパイラルを生み出さないためには、「異議申し立て」そのものに価値を認めるような議論ではなく、それを体系化し、実際の政策につなげるような議論をすることだ。世代論というものはそのためのもっとも大きな障害のひとつである。『AERA』の「年表つき」記事のように、戯画化されたライフコースを絶対視するのではなく、真に有効な手立てを模索する必要がある。

さて、2010年以降の、ロスジェネ・メディアとしての『AERA』はどのような傾向を示しているだろうか。具体的に言うと、それまでよりもより大文字の「幸福」や「救済」を、政治などと絡めて論じるようになっている。第2節で採り上げた「「希望は橋下」30代の渇望」もそうだが、それ以外にも「そして蓮舫だけが勝った――「変えてほしい」切望が再び」(木村恵子、小林明子、福井洋平、2010年7月19日号)や、「若者にデフォルト待望論――資産も職もない絶望感」(山田厚史、2012年1月16日号)が挙げられる。

前者では、蓮舫を「変えてくれる」という理由で支持する20代後半~30代の人たちを取材したものである。この記事では、都内の20~40代の618人に対してアンケートをとり、どのような人が村田を支持しているかということを「分析」しているが、統計学的な処理が行われた形跡はない。

後者は、若い世代にインフレによるデフォルトを求める心性が広がっている――もちろん、統計的根拠はない――とした上で、若い世代に広がる「リセット願望」を読み解くというものとなっている。この記事は、そもそもインフレについて、数パーセント程度のマイルドなものと、所謂ハイパーインフレを峻別して論じられているものではなく、「リセット願望」が広がっているという問題設定を検証せず、裏付けが少なくとも若い世代に関しては1人(しかも伝聞)だけで、その後は「識者」のコメントを並べ立てるというものであり、何を主張したいのか不明瞭なものである。

「強い蓮舫」「強い橋下」「リセット」などを一足飛びに求めるようなこれらの記事が、他のメディアや実際の政策に与える影響は少ないと見ていいだろう。結局これらの記事は「雰囲気」だけを報じている、ロスジェネ・メディアとしての『AERA』による極めて弱い「異議申し立て」でしかない。

他方、「幸せと不幸の境目はどこに?――20、30代300人調査」(木村恵子、澤田晃宏、2010年10月4日号)は、アンケート調査によって若い世代の「不幸」を検証するものであるが、そもそも調査自体が稚拙な分析に終始しているため、深みのある記事とは言えない。

不幸自慢、バッシングを経て、現在のロスジェネ・メディアとしての『AERA』は迷走の段階にあると思える。願わくば、『AERA』が、ロスジェネ・メディアとしての自らの言説の不毛さを見直してほしいものである。


文献・資料(『AERA』は掲載号順、それ以外は著者順)

宇都宮健太朗[2002]「元気ないぞ!団塊Jr世代――オヤジほど自分を主張しきれない」、『AERA』2002年10月7日号、pp.40-43、朝日新聞社、2002年10月
木村恵子、高崎真規子[2004]「かしずく女の時代――女を「装う」女の焦り」、『AERA』木村恵子、高崎真規子、2004年10月4日号、pp.16-21、朝日新聞社、2004年10月
内山洋紀[2005]「「30歳で成人式」がいい――自信過小、自分探し世代が「オトナ」になるとき」、『AERA』2005年2月21日号、pp.12-15、朝日新聞社、2005年2月
坂井浩和[2007]「トンデモ内定社員――「ゆとり」チルドレンの就活」、『AERA』2007年4月16日号、pp.14-17、朝日新聞社、2007年4月
木村恵子、加藤美穂[2007]「ロスジェネって言うな――25~35歳覆う不遇感格差」、『AERA』2007年10月29日号、pp.16-21、朝日新聞社、2007年10月
木村恵子、福井洋平[2008]「あと1年の不遇感――ロスジェネとポスト・ロスジェネ」、『AERA』2008年1月21日号、pp.14-19、朝日新聞社、2008年1月
太田匡彦、野村美絵[2008]「「ゆとり社員」で職場崩壊――新入社員教育を見直す企業」、『AERA』2008年5月19日号、pp.14-19、朝日新聞出版、2008年5月
大波綾[2008]「大人免疫力が低すぎる――「売り手市場」のゆとり世代という新人種」、『AERA』2008年6月23日号、pp.28-31、朝日新聞出版、2008年6月
太田匡彦、福山栄子、鈴木繁[2008]「ロスジェネがバブル超える日――現役世代それぞれの「10年後」」、『AERA』2008年12月29日・2009年1月5日合併号、pp.14-19、朝日新聞出版、2008年12月
太田匡彦[2009]「入社10年目の進化する誇り――就職氷河期世代が運命づけたそれぞれの道」、『AERA』2009年11月9日号、pp.48-52、朝日新聞出版、2009年11月
太田匡彦[2012]「「希望は橋下」30代の渇望――なぜ僕たちは橋下徹にひかれるのか」、『AERA』2012年9月3日号、pp.12-17、朝日新聞出版、2012年9月

橋本努[2012]「格差社会論とは何であったのか」、『α-Synodos』(メールマガジン)第104号、2012年7月
速水健朗[2012]「放射能から閉経まで 女性誌アエラ」の研究」、『新潮45』2012年4月号、pp.86-92、新潮社、2012年4月
桐山秀樹[2009]『「アエラ族」の憂鬱――「バリキャリ」「女尊男卑」で女は幸せになったか』PHP研究所、2009年9月
中森明夫[1999]「アエラ問題研究会(月刊ナカモリ効果・第35回)」、『噂の眞相』1999年10月号、噂の眞相、1999年10月

後藤和智[2011]「「ゆとり教育世代」の恐怖?――ステレオタイプはいかに消費されるか(検証・格差論 第6回)」、『POSSE』第13号、pp.207-214、POSSE、2011年12月
後藤和智[2012]「就職氷河期の新入社員言説の研究――「シュガー社員」論を中心に(検証・格差論 第7回)」、『POSSE』第14号、pp.157-166、POSSE、2012年2月

『検証・格差論』第7章 「ゆとり教育世代」の恐怖?――ステレオタイプはいかに消費されるか

まえがき

本稿は2011年に『POSSE』第13号に寄稿し、2015年に同人誌『検証・格差論』に収録したものですが、近年の言論状況を鑑み、本稿を同書の無料サンプルとして公開いたします。忘れ去られようとしている若者論の記録です。

なお、『検証・格差論』は下記のサイトで電子書籍として配信しております。

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1. はじめに

ゆとり世代」――少なくとも新聞報道においては、かつては、豊富な時間と金を持った退職後の世代を指す言葉であった(例えば、2005年朝日新聞夕刊「ゆとり世代、遺跡ロマン 気分は学者」においては、60歳前後の世代が参加する遺跡の見学会を採り上げている)が、2008年周辺からその意味は一変し、所謂「ゆとり教育」(本来であれば「ゆとり教育」なるものは方針的には1970年代からあったが、ここでは俗に「ゆとり教育」と呼ばれる、平成0年代~10年代後半の学習指導要領に基づく教育方針を指すこととする)なるものを受けてきた世代、という意味合いで使われるようになった。同時期、新聞や雑誌の報道においては、そのような「ゆとり世代」が会社に大量に入社してくる、ということが、(不当なものも多い)危機感を持って報道されるようになった。「ゆとり世代」問題は、この段階で「教育問題」から「就業問題」へと展開したということになる。

ゆとり世代」という言葉を取り扱った記事は、主に2008年のものである。それらの記事においては、概ね次のような評価や枕詞がつけられることが多い。

「『最近の若者は――』で済まない質の変化が確かに起きている。(略)新人育成はこれまで人事のテーマだったが、いまや多くの企業で経営のテーマになってしまった」(リクルートマネジメントソリューションズ・シニアコンサルタントの桑原正義の発言。太田匡彦、野村美絵[2008])

「今年の新入社員はちょっと違う…」
採用や研修を専門に行う企業にヒアリングをしたところ、多くの担当者から、こんな声が聞こえてきました。(杉村貴代[2008])

「今年の新入社員はちょっと違う」。ここまで過激ではないにしても、そう首をかしげている読者も多いのではないだろうか。(「日経ビジネス」2008年8月25日号「新入社員教育ゆとり世代”を戦士に」pp.84-85)

新人類、エイリアン、モンスター……いつの時代も若い世代は「新しい種族」と見なされ、さまざまな言葉で形容されてきた。(略)しかし、ここ二、三年(略)今年はどうも本物の「エイリアン」が入社してきたようなのだ。(国府田昌史ほか[2009]p.5)

このように、今まで若い世代は常に奇特な目で見られてきたが、それにも増して昨今の新入社員は奇特である、という書き出しの記事が少なくない。果たしてそのような見方は本当に公正なのか。そもそも1年やそこらで新入社員の質というものは劇的に変わるものなのだろうか?それは「ゆとり世代」という言葉が生み出した幻影である可能性が高いのではないか。「ゆとり世代」と呼ばれる世代がメディアでどのように扱われているかということを、今回は検証していこう。

2. メディアで語られる表象

様々な雑誌などの記事では「ゆとり世代」の特徴が箇条書きされる。例えば「日経ビジネス」平成20年8月25日号の記事「新入社員教育ゆとり世代”を戦士に」においては、p.85に掲示している「ゆとり世代の主な特徴」において「打たれ弱い」「コミュニケーションが苦手」「ナンバー1よりオンリー1」「チャレンジを恐れる」「入社してもお客様気分」などといった、主にネガティヴなイメージの「特徴」なるものを載せている。また「週刊ダイヤモンド」平成20年4月5日号の特集「学力大不安」内での記事「「社会起業家」を目指す大学生 ゆとり世代特有の強みと弱み」の中では、陰山英男立命館小学校副校長)の意見として「問題を人や社会のせいにしがち」「物事はうまくいって当たり前と考える」「このダメダメな状況を一気に解決する夢のような方法がどこかにあると考える」という「ゆとり世代3つの特徴」なるものを上げている。

また、平成22年12月18日付北海道新聞(「就活 勝ち取れ内定、学生に喝!(現代かわら版)」)は、採用担当者約800人にとったアンケートの分析として、《約5割が「『ゆとり世代』の就活だと感じる」と回答。自由記述では「のんびりしている」「競争意識が薄い」などの意見が際立った》などという結果が出たことを報じている。しかし、そもそも《「ゆとり世代」の就活》というものに対する定義付けがこの記事ではされていない。おそらく「ゆとり世代」という言葉に対するステレオタイプを前提に読むべきものなのだろうが、果たしてこのようなものは記事として正しいものと言えるのだろうか。

もちろん、ここで箇条書きされたり、あるいは「特徴」と決めつけられているものは、論者の(勝手な)イメージの押しつけや、あるいは時代背景もしくは教育制度から自分勝手に構築したもので、統計的な裏付けがあるわけではない。然るに、これは若者論、世代論というもの全体に言えることなのだが、論者のイメージが何の手続きも経ないまま既成事実として定着してしまうという恐ろしさがある。

ところで、「ゆとり世代」言説と言えば、もうひとつ欠かせないものとして「学力低下」が挙げられるが、学力に関して倒錯した議論のひとつとして、伊藤博之によるものを挙げることができる。伊藤は、平成17年現在のOECD各国における教育機関への公的な財政支出の対GDP比が加盟国中で最も低いことを挙げ、次のように書く。曰く、

(学力への)そうした影響をマクロ経済の視点から憂慮しているのが第一生命経済研究所の長濱利廣主席エコノミストだ。ゆとり教育で成績が落ちたと指摘されるOECD経済協力開発機構う)の「生徒の学力到達度調査(PISA)」の関係を分析した結果、長濱氏は「両者の間には明らかに相関関係がある」と指摘する。

長濱氏が分析に用いた06年のPISAにおける日本の「科学リテラシー」の得点は00年時点よりも19点ダウン。「読解力」では24点、また「数学的リテラシー」では34点も下がっている。そうした学力の低下は、今後の日本の経済力の衰退を暗示する。(伊藤博之[2009]p.124、引用に際して漢数字を数字に改めた)

そしてこれにつなげて、現場からも学力低下の「影響」を危惧する声が、とつなげるわけだが、以下のような疑問が生じる。

なぜ長濱や伊藤は2000年調査からの結果の比較のみでそのように断じるのだろうか?さらに言うとなぜ他の国の事例を出さないのだろうか。一部だけを抜き取った恣意的な比較と批判されることは想定しているのだろうか。ちなみに2009年調査においては、我が国は2006年調査に比べて、数学的リテラシーで6点、科学的リテラシーで9点、読解力に至っては22点も点数を上げている(国立教育政策研究所の資料より。注1)。なお伊藤の記事で唯一救いようがあるのは、「ゆとり教育」のルーツが1970年代にあることを記載していることだ(伊藤、前掲p.123)。他の類似の記事と比べて唯一と言っていい。この点だけは評価できる。

3. ジャーナリズムからの逸脱

ゆとり世代」を取り扱った記事には、ジャーナリズムや研究・批評のあり方から逸脱しているものも少なくない。例えば「ゆとり世代」という言葉が週刊誌で初めて使われたと推測される(国立国会図書館のデータベース上で「ゆとり世代」と検索すると最も古い記事として出てくる)「週刊現代」2004年7月10日号の記事は、既にタイトルからして「今年の新入社員は“ゆとり教育バカ”で~す」などというものである。p.232では、次のように述べている。

―――――
(筆者注:新入社員の質が悪くなっているのではないかという)この疑問、じつは杞憂ではなく、的を得ている。近年の新入社員、ことに今年の新入社員は、どの企業であれ、確実に出来が悪いはずなのである。(「週刊現代」、2004年7月10日号p.232)
―――――

《はずなのである》ときた。このあとには「ゆとり教育」に関する(メディア上の)一般的な説明が続いたあと、それを「実証」するかのような「実例」や「識者」のコメントを出してくる。それらの正当性に対する検証や、あるいはマクロな統計などは存在しない。
週刊誌の報道に目くじらを立てても、というコメントがあるかもしれないが、さらに酷い例として、「文藝春秋」平成23年4月号の山内宏泰(ジャーナリスト)「「ゆとり世代」社員はやはり非常識」がある。この記事は、原田隆史(原田教育研究所主宰)や陰山英男などといった若者論では「人気」の「識者」のコメントだけで「ゆとり世代」なるものを「非常識」と決めつけてしまったという有様である。当然ながら(?)PISAの順位の変化を出して学力も低下する一方だと煽っている(山内宏泰[2009]pp.343-344)。2009年調査では(参加国・地域が増えたにも関わらず)順位を上げたのだが、その点について山内はどのように考えているのだろうか。

また、メディア上で「ゆとり世代」の脅威が叫ばれ始める時期から「ゆとり世代」について積極的に発言している陰山は、「週刊ダイヤモンド」の連載で、例えば《彼ら“ゆとり世代”は、個性尊重のなの下、「やりたいことだけやりなさい」という教育を受けてきた。(略)越すべきハードルを与えられなかったため、成長の機会を逸してしまっている》(陰山英男[2007]p.71)などと、どこの学習指導要領にも書いていない印象論をさも当然のことであるかのように述べていたり、もしくは《彼らのことを理解するためには、この世代が学校で使ってきた教材を見てみるのが手っ取り早い》(陰山英男[2008]p.65)などと非科学的かつ教育万能主義的なことを言ったりしている。

このような「報道」や「批評」が問題なのは、そこで採り上げられている「実例」とやらが全体を代表しているかということや、あるいは自らの行っていることが果たして報道や批評の正当性と照らし合わせて妥当かどうかを検討する機会を持たないことである。特に若者論においては、このような事態が起こりやすい。しかし、そもそも若年層はメディアにバッシングされるキャラクターを期待されているわけではないのであって、若者相手だから過剰なバッシングも許される、というのは傲慢に過ぎないだろう。

4. 「ゆとり世代」は「商機」か?

一方、人事・管理職向けの雑誌や記事では、昨今の新入社員が「ゆとり世代」であるということを前提に書かれたものが如く出ている。

例えば2011年3月14日付北海道新聞は、北海道若年者就職支援センター(ジョブカフェ北海道)が道内の中小企業向けに紹介した冊子を紹介している(天沼勲[2011])。記事によれば、その冊子においては昨今の新入社員が「ゆとり世代」であることが強調され、中には次のような記述もあるという。

一方で、ゆとり教育で育った世代については「他人と深く関わろうとしない、『できること』『やりたいこと』を優先する傾向がある。大学受験でも競争がゆるく、失敗経験に乏しく打たれ弱い」と分析する。

ジョブカフェが発行する冊子に、このようなことが平然と書かれているということに我々はもっと危機感を持ったほうがいい。若年層の就職を支援する機関が、このようにメディアで語られているようなマイナスイメージの表象を当然であるかの如く述べているのだとすれば、若年層を本気で支援する気力があるのか、と疑われても仕方がないだろう。

ゆとり世代」に対する新人研修を取り扱った記事も多い。例えば、2010年9月4日付東京新聞においては、テレビ東京の番組「ガイアの夜明け」で、とある家具工房における「ゆとり世代」の育成現場を取り扱ったことを採り上げている。内容は《朝5時に起床し、朝食を作ることから一日が始まる。携帯電話も恋愛も禁止》という条件の下で《内弟子として4年、計8年にわたって修行を積む》というものであるという。また平成22年4月24日付西日本新聞は、九州電力西部ガスの研修を採り上げているが、例えば西部ガスのものは《ガス管の埋設された真上を歩きながら、地域に不可欠な社会資本を担う企業の一員になった自覚を植え付けようと》はじめられたものであるという。

しかし、これらが果たして昨今「ゆとり世代」に対する対応として始まったものなのかどうかはわからない。もしそうであれば企業側の「ゆとり世代」を特別視するかのような傾向に異議を唱える必要があるし、そうでないとすればなぜわざわざ「ゆとり世代」の人材育成現場として採り上げる必要があるのかわからない。

一部の人材コンサルタントも現在の新入社員が「ゆとり世代」であることをいいことに、メディア上でのマイナスイメージを前提として語ることも少なくない。例えば『頭痛のタネは新入社員』(新潮新書)などの著書がある前川孝雄(リクナビ元編集長)は、現代の新入社員が「大人免疫力」なるものが低いとし、それについて「リアルコミュニケーション」を重視した、《ネット・メールより〈リアルコミュニケーション〉重視》《〈上司からの誘い〉には〈よろこんで!〉》などといった6つの心得を持つことの必要性を説いている(大波綾[2008])。リクナビの編集長ともあろう人間が、果たしてどのような根拠でそう言っているのかを開示しないというのは理解に苦しむ。

もちろん、「ゆとり世代」は決して理解不能でもなく、教育不可能でもないという意見もあるので紹介しておく。例えば、上田隆宣(日本ペイント情報システム部統括部長)は、記事のタイトル(「上司泣かせのゆとり世代を即戦力にする上手な育て方、伸ばし方」)とは裏腹に一般的な指導法を紹介した文章の締めとして《競争を知らないゆとり世代とは言われるが、役に立つ仕事をしたい、人に遅れをとりたくない、ほめられたいという気持ちは人間の本能であり、世代に関係の無い不偏の原理である》(上田隆宣[2009]p.43)と書いている。内海正人も、《ただ「時代が違う」「生き方が違う」と一言で済ませてしまうのは簡単だが、それでは世代間のギャップは解消しない。ましてや、そんな話題を酒のつまみにして、違いを事細かに分析することが彼らを理解することになるはずはないのである》(内海正人[2009]p.100)と安易な世代論を戒めている。

5. ステレオタイプがもたらす悲劇

ここまで、「ゆとり世代」なるものがどのような表象で語られ、それがどのように利用されているかを見てきた。しかしここまで見て、そもそも「ゆとり世代」なるという言説は名称だけが特殊なだけで、実際の消費のされ方は、以前の世代と変わらないのではないか、という見方もあるかもしれない。「ゆとり世代」なる言葉はメディアで消費されているだけで、実際に影響や害悪を及ぼしていないのではないか、と。

だが、現実に現代の新入社員が「ゆとり世代」であるということを免罪符として度が外れた行為を正当化する向きもある。2010年5月24日付朝日新聞東京本社版朝刊(「「新卒切り」に気をつけて 甘い採用計画、新人が「調整弁」に」)においては、都内のITコンサルタント会社を内定辞退した(記事中では「内定切り」の一例として書かれている)女子学生の話が紹介されている。この女子学生は、入社直前の2月にIT知識を問うテストがあり、その結果をめぐって執行役員に《「君の大学では一生上に上がれない」「クズと同じだ」と面罵された》ことがきっかけで内定を辞退した(のちに、大学の就職課が正式に抗議した)という。

これについて会社側は、朝日の取材に対し《「内定切りや新人切りではない。ゆとり世代の学生は甘いところがあり、厳しく接するのは教育」》とコメントしている。どんなことが行われようとも「教育」の一言で済まされ、免罪されるという考えは、それこそ戸塚ヨットスクールなどの論理と変わらないだろう。相手が「ゆとり世代」だからといって強迫的な行為が許されることがあるべきではない。

また、「しんぶん赤旗」2011年1月10日号では、近年の就職活動の光景のひとつとして《就職コンサルタントに「内定をとれないのは労働条件を聞くからだ」「ゆとり世代で常識がない」といわれ、内定が取れないのは自分たちのせいだと思わされて》いるというものが繰り広げられていると論じている。もちろん、これが現代の就職活動を代表するものであると主張するわけではないが、就職活動における「自己否定」の一手段として、自分たちの世代が「ゆとり世代」という劣った世代であるという自己認識を持つことを強要されているということに対する問題意識を持ったほうがいい。

また、学生の就職難の原因は学生が莫迦だからだ、という言説は、一部の「大人」にとっては確かに耳に感触のいいものかもしれない。現にそういうことをTwitter上で発言している学者(池田信夫など)もいる。然るにそのような問題設定は、就職の問題を景気やデフレの問題から捉え、経済的に正しい解決策を提案することを妨げる要因にもなりかねない。地方では学生の雇用を控える要因としてデフレや円高を挙げている向きもあり、こと製造業にとっては(すくなくとも定量化どころか定性化もかなり困難な「ゆとり教育」による影響よりは)痛手となっている。このような現状に対し、《これだけの不況、デフレ・円高では、学生個人の努力も無に帰してしまう。脱不況こそ最大の雇用対策だ。これだけは忘れないでほしい》(石戸諭[2010])と説く向きもあるが、ジャーナリズム全体としては少数派と言ってよい。

そもそも「ゆとり教育」なるものに対するステレオタイプを保持したまま、ジャーナリズムから逸脱した「報道」をしたり、もしくは「対処法」を吹聴したりするのは、年齢(生年)差別にもつながりかねない。そもそもメディアが教育の政策に合わせて都合良く乗っているだけの「ゆとり世代」報道や、それによる世代認識をベースとする各種の「提言」の検証がなぜ行われないのかということについて、もっと議論されるべきではないのか。

注1:http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/index.html 掲載の資料より筆者算出。

引用文献
天沼勲[2011]「ゆとり世代社員 伸ばすコツ指南」, 2011年3月14日付北海道新聞, p.13, 北海道新聞社, 2011年3月
石戸諭[2010]「就職内定率41.3% 来春張るの県内大学生、過去最低(究・求・救・Q)」, 2010年12月10日付毎日新聞岡山県版, p.21, 毎日新聞社, 2010年12月
伊藤博之[2009]「ゆとり世代を戦力化するコツ」, 「PRESIDENT」2009年5月14日号, pp.122-128, プレジデント社, 2009年5月
陰山英男[2007]「社会にデビューしつつある「ゆとり世代」とは?(仕事力・家庭力をグングン伸ばす大人の陰山メソッド・59)」, 「週刊ダイヤモンド」2007年12月22日号, p.71, ダイヤモンド社, 2007年12月
陰山英男[2008]「知識軽視の教材によって「ゆとり世代」が生まれた(仕事力・家庭力をグングン伸ばす大人の陰山メソッド・61)」, 「週刊ダイヤモンド」2007年12月22日号, p.71, ダイヤモンド社, 2007年12月
国府田昌史, 茂木俊輔, 清木たくや[2009]「20代社員はこうして育てる――「ゆとり世代」戦力化作戦」, 「Fole」2009年11月号, pp.4-13, みずほ総合研究所, 2009年11月
大波綾[2008]「大人免疫力が低すぎる」, 「AERA」2008年6月23日号, pp.28-31, 朝日新聞社, 2008年6月
太田匡彦, 野村美絵[2008]「「ゆとり社員」で職場崩壊」, 「AERA」2008年5月19日号, pp.14-18, 朝日新聞社, 2008年5月
杉村貴代[2008]「これまでの採用活動はもはや通用しない!「ゆとり世代」獲得のための傾向と対策①」, 「Business Risk Management」2008年7月号, ビジネス・エデュケーション・センター, pp.24-27, 2008年7月号
上田隆宣[2009]「上司泣かせのゆとり世代を即戦力にする上手な育て方、伸ばし方」, 「研究開発リーダー」2009年11月号, pp.41-43, 技術情報協会, 2009年11月
内海正人[2009]「”イマドキ”部下指導の勘どころ――「ゆとり世代」とどう接し、指導するか」, 「労政時報」2009年9月11日号, pp.95-112, 労務行政研究所, 2009年9月
山内宏泰[2009]「「ゆとり世代」社員はやはり非常識」, 「文藝春秋」2009年4月号, pp.340-347, 文藝春秋, 2009年4月

※肩書きは原則として論文及び記事発表時のものである。
※文中の新聞及び一部の雑誌の記事は、@niftyの新聞記事検索サービスから引用したものである。

『検証・格差論』第2章 城繁幸――「昭和的価値観からの脱却」の暴走

本稿は2009年に『POSSE』第7号に寄稿し、2015年に同人誌『検証・格差論』に収録したものですが、近年の言論状況を鑑み、本稿を同書の無料サンプルとして公開いたします。忘れ去られようとしている「ロスジェネ」論の記録です。

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主に2000年代中盤~後期における若年層を巡る「格差」や貧困にまつわる言説を検証していくシリーズ。その第1回として、『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書、2006年)などの著書がある人材コンサルタント城繁幸の言説を検証していきたい。

私が城の現在の議論に対して興味を持つようになったのは、平成22年1月6日に、ニュースサイト「J-CAST」の連載「J-CAST会社ウォッチ」に掲載された文章「派遣法改正?そんなことより「憲法改正」だ!」である。城は現政権が派遣労働の規制強化に踏み切ることを受け、それがもたらす未来について下記の如く書いている。

でもまあ実際に解雇されても困るので、企業に対し「正社員雇用を義務付ける法律」も作る必要があるでしょう。当然、「人件費が払えません」という企業も出てくるので、亀井さんにもう一頑張りしてもらって「正社員雇用モラトリアム法案」でも作ってもらい、人件費の差額は国家が補填する必要もありますね。

あ、もちろん「新卒採用を義務付ける法律」も作らないといけませんよ。ほっとくと90年代みたいに、雇用余剰はすべて新卒採用抑制で解消されちゃって、“鳩山氷河期”が発生してしまいますから。そんなことは友愛的に許されませんもんね。「○○商事は何人、××電機は何人」という具合に、国家が学生を割り振るしかありません。(城繁幸[2010])

派遣労働の規制強化に対して、失業を増やすのではないか、あるいは需要の創出につながらないのではないかという真っ当な批判であればまだよいし、そのような批判も数多くある。だが城によるこのような批判は、派遣規制強化に対する多くの批判の中でも明らかに異質だ。この記事においては、上記の引用部分に限らず、城は明らかに派遣労働規制が(労働生産性の低下や失業の増加という段階ではなく)計画経済をもたらすかの如く書いている。

もちろんJ-CASTにおける城の連載は、みんながみんなこんな論調で行われている、というわけでもない。だが近年の城の議論においては、しきりに「連合」や「社民党」などを格差拡大の元凶として糾弾するようなものが多い。例えば『Voice』(PHP研究所)2008年10月号の「貧困ビジネスで稼ぐ連中!」なる論考においては、城は堤未果などを自分たちの政治的主張を通すために「格差」論をダシにして金を稼いでいると批判して《悲しいことに既存メディアは、同様に格差をネタにした貧困ビジネスで稼ぐ同類に溢れている》と述べている。だが、そもそも「貧困ビジネス」という言葉それ自体を誤用しているし、仮にここで批判されている堤や加藤紘一などの言説が(城の言うところの)「貧困ビジネス」であるならば、城の言説だってそうでない保障はどこにもないはずだ。

または、格差解消、もしくは労働問題を解決するための手段として、「現在の正社員保護主義の維持」と「労働ビッグバンによる労働市場の抜本的改革」の2つを提示し、前者を支持するものは《すべからく保守主義者である》(城繁幸[2009]p.91)といった具合に格差を生み出す構造の(暗黙的)支持者として糾弾されてしまう。急進的改革以外は認めない、という立場なのだろうか。

ただし、私の本稿における関心事項は、むしろ城がこのような言説に傾倒してしまった経緯のほうにある。本稿ではそれを見ていきたい。

元々城は、初の著書である『内側から見た富士通――「成果主義」の崩壊』(光文社ペーパーバックス、2004年)や、その続編とも言える『日本型「成果主義」の可能性』(東洋経済新報社、2005年)などに見られるように、我が国の企業の人事制度において、よりよい「成果主義」のためには何をすべきか、という議論が主であった。なお、この時期の議論においても、賃金の下方硬直性による中高年正社員の賃金調整の難しさや、それによる世代間格差といった、現在に至るまでの城の経済面での認識はほとんど変わっていない(城[2004]第4章など)。

ただし、当時の城は、人事評価の抜本的な改革の必要性を訴えつつも、それが可能になる社会の条件や、改革によるリスクへの配慮も持っていた。例えば『日本型「成果主義」の可能性』の第5章で城は、《目標管理制度に代表される成果主義型の人事制度は(略)決して「万能な妙薬」ではないということだ。どんな薬でもそうだが、使い方を誤るととんでもない「副作用」に苦しむことになる》(城繁幸[2005]p.185)と述べている。

城の言説に変化が生じるのは、平成18年ごろであるように見える。勘のいい方なら気付かれたかもしれないが、この年の9月に、城は『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書、2006年)なる著書を出し、現代の若年層の側に立った労働論としてベストセラーとなった。

同書によって、城の言説に新たに「昭和的価値観からの脱却」という基軸が生み出された。とはいえ同書における「昭和的価値観」とは、年功序列型の人事制度、及びそれに合わせて設計された社会システムとほぼ同義であった。

また、この基軸の創出が、直接的に、近年の城の言説の先鋭化に繋がったとも言い切れない。城が「平成的価値観」の特徴として採り上げていたのはあくまでも「多様性」であり、どちらかといえば多様性=「平成的価値観」が台頭しつつあるという現実を理解すべきだという論調のものが中心であった。

(略)平成的価値観とは、なにも「ビジネスで成功すること」だけではない(それは形を変えた昭和的価値観だ)。あえて言うなら、年功序列というレールに縛られない生き方であり、"多様性"がキーワードとなる。(城繁幸[2007]p.160)

その集大成といえるのが、2008年の『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか――アウトサイダーの時代』(ちくま新書、2008年)である。城は同書で22の「昭和的価値観」を採り上げ、それに対して変革をもたらすであろう、もしくはそれに立ち向かっている若年層を紹介している。これだけならまだいい。

実は同書にこそ、近年の城の言説を読み解く鍵が転がっている。それは昭和的価値観22「左翼は労働者の味方であること」だ。同章は『若者を見殺しにする国』(双風舎、2007年)の赤木智弘による論考「「丸山真男」をひっぱたきたい」(「論座」2007年1月号)を採り上げたもので、赤木に対して「論座」同年4月号で「反論」した左派の欺瞞を衝くものである。

このとき城は、格差を生み出す構造を生み出す存在としての中高年左派という集団を「認識」した。そしてほぼ同時期から、城の「主戦場」は企業の人事制度から、非正規雇用問題へとシフトしていっていた。それと同時に、城の批判対象もまた、「革新政党」にシフトしていったのである。城が「革新政党」に対するバッシングの材料として用いるのは、日本社会党が《非正規雇用が拡大した時期(九三~九六年)に連立政権の中軸にあ》ったこと(城繁幸[2008b]p.214)であった。もちろんこれが、だから現在の社民党が格差の拡大を小泉純一郎政権のせいにするのはお門違いなのではないかという批判であれば正しい(事実、城繁幸[2008a]ではそのような文脈で使われていた)。だがこの論理は、概ね城が「革新政党」もしくはその周辺の論者(代表例が森永卓郎だろう)を叩くだけの口実にしかなっていないのが現実だ。

この時期以降の城の言説は、ほとんどが雇用を流動化すれば若年労働者、さらにはすべての労働者にとっての理想的な環境が実現するといったものばかりである。

例えば、城は『たった1%の賃下げが99%を幸せにする』(東洋経済新報社、2009年)で、《現在、もっとも高賃金の45~55歳正社員が、年間受け取る給与総額は約45兆円にのぼる。そのうちのたった1%、4500億円を非正規雇用側に分配することで、10万人の雇用を維持することも可能となるのだ》(城繁幸[2009b]p.5)と述べている。またpp.190-192においても、賃金切り下げを認める法案が可決され、賃下げ分はその半分を国が補填するという施策をとることにより、雇用保険や再就職支援が拡充されたり、しかも派遣労働者の収入も伸び、ホワイトカラーの生産性も向上するというシミュレーションを示している。だが、果たしてその賃下げを行った分の再配分を誰がやるのだろうか?後者においても、国がやるのは賃下げ分を補填する(どうやって?直接賃下げに遭った人に渡すのか、それとも企業に渡すのか?)くらいであり、再配分の主体は国なのか企業なのかはたまた自由市場なのかは一切わからずじまいだ。しかも、そこまで都合良く賃下げによる好影響が若年層、非正規雇用者にもたらされるのだろうか?

城がこのように、自らの主張が実現する条件や時間などを考えずに、さも自らの改革案が社会にとって利益となるのは明らかであるといった言説を生みだし続けるのには、彼なりの理由があるのかもしれない。例えば「週刊東洋経済」平成21年11月7日号の湯浅誠との対談で、このように述べている。

湯浅 城さんの話は「ウルトラC」があるような感じがするんですよ。ここさえやればうまくいくんだ、という。でも私はウルトラCはないと思う。いくつものステップを踏まないと、いきなり欧州型の職務給になどならないし、横断的労働市場も形成されない。
城 私はそれでもウルトラCに賭けてみたい。焦っているのには理由があってそれは財政です。すでに維持不可能なレベルで、私はあと10年ももたないと思っています。その意味でも一発逆転を図りたい。(城繁幸湯浅誠[2009]p.67)

財政破綻論についての正しさは脇においておくとしても、《ウルトラC》なるものを期待するあまり、非現実的、あるいは具体的な主体や手順が見えない議論に終始していては、ますます問題の解決は遠ざかるばかりだろう。城の言説は、世代間闘争論、もしくは価値観闘争論の色彩を強くしすぎているあまり、現実からどんどん遠ざかっていると言わざるを得ないのだ(それゆえ、景気や社会保障の問題がほとんど語られないのもまた必然である)。

引用文献
城繁幸[2004]『内側から見た富士通――「成果主義」の崩壊』光文社ペーパーバックス、2004年7月
城繁幸[2005]『日本型「成果主義」の可能性』東洋経済新報社、2005年4月
城繁幸[2007]「新庄 中田はなぜ引退したか」、『Voice』2007年1月号、pp.156-161、2007年1月
城繁幸[2008]『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか――アウトサイダーの時代』ちくま新書、2008年3月
城繁幸[2008b]「若者よ、既得権益を打ち破れ!」、『第三文明』2008年8月号、pp.38-40、第三文明社、2008年8月
城繁幸[2009a]「ロスジェネと中高年が甦る日」、『Voice』2009年1月号、pp.88-91、PHP研究所、2009年1月
城繁幸[2009b]『たった1%の賃下げが99%を幸せにする』東洋経済新報社、2009年3月
城繁幸湯浅誠[2009]「正社員は既得権益か?」、『週刊東洋経済』2009年11月7日号、pp.64-67、東洋経済新報社、2009年
城繁幸[2010]「派遣法改正?そんなことより「憲法改正」だ!」http://www.j-cast.com/kaisha/2010/01/06057297.html 、2010年

 

後藤和智事務所OffLine コミックマーケット101・おもしろ同人誌バザール大崎参加情報&仙台初売りのお知らせ

後藤和智事務所OffLine

2022年12月30日

おもしろ同人誌バザール大崎

JR大崎駅南改札前

2022年12月31日

コミックマーケット101

東京ビッグサイト

東5ホール「プ」06b

webカタログ https://webcatalog.circle.ms/Circle/16809435

詳細な情報は公式サイトをご覧ください。

コミックマーケット 

www.comiket.co.jp

おもしろ同人誌バザール

お品書き

コミケ

コミックマーケット101お品書き

・おもバザ

おもしろ同人誌バザール大崎お品書き

新刊情報

第一新刊・評論本『Text Mining Maniax for Python――Pythonによる日本語計量テキスト分析の基礎』

kazugoto.hatenablog.com

www.pixiv.net

第二新刊・刀剣乱舞本『へし切長谷部の〈男士〉論講義――市民のための男性学の基礎』

kazugoto.hatenablog.com

www.pixiv.net

ご注意・ご連絡

  • 参加の際は、必ず公式サイトや公式Twitterアカウントを確認の上お越しください。深夜来場は主催者及び開催地に対して多大な迷惑をかける行為です。
  • 後藤和智事務所OffLineでは、現金の他、一部クレジットカード(VISA、マスターカードアメリカンエキスプレス)、交通系ICカード9種類(※)、iD、J-Coin Pay、Union Pay(銀聯)、PayPay(個人間決済)による支払いを受け付けております。
  • サークル代表は2022年10月30日付でCOVID-19の4回目のワクチン(モデルナ製、BA.1対応)を、11月28日付で季節性インフルエンザのワクチンを接種しております。

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仙台初売りのお知らせ

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仙台初売り告知

仙台初売り値段表

BOOTHに開設している後藤和智事務所OffLineの直販サイトでは、2022年1月2日から30日まで、仙台初売りを開催します。電子書籍を割引価格で提供します。この機会に是非。なお、2023年1月1日までは同内容で歳末謝恩祭を実施しております。

【コミケ101新刊】へし切長谷部の〈男士〉論講義――市民のための男性学の基礎

【書誌データ】

タイトル:へし切長谷部の〈男士〉論講義――市民のための男性学の基礎

著者:後藤和智後藤和智事務所OffLine)

表紙イラスト:柊ヘイセ(https://www.pixiv.net/users/17915269

サイズ・ページ数:A5、36ページ

価格:即売会700円、書店850円(税抜き)

通販取り扱い:メロンブックス(予定)

電子書籍:BOOTH(予定)

※本書は「刀剣乱舞 -ONLINE-」(DMMゲームス、ニトロプラス)の二次創作作品です。著者は原作者と一切関係はありません。

サンプル

www.pixiv.net

目次

はじめに

1 はじめに:ジェンダーとは何か

2 「男らしさ」を保持する社会的機制:「からかいの政治学

3 性差は解消できない?

4 男性学の役割とは?

5 ホモソーシャルとは何か?

6 閑――女性は男社会をどう見ているか

7 男性は男性に抑圧される

8 抑圧の果てに

9 原因の内在化・外在化から問題の外在化へ

あとがき

 

【コミケ101新刊】Text Mining Maniax for Python――Pythonによる日本語計量テキスト分析の基礎

【書誌データ】

タイトル:Text Mining Maniax for Python――Pythonによる日本語計量テキスト分析の基礎

発行日:2022年12月31日(コミックマーケット101)

著者:後藤和智後藤和智事務所OffLine)

サイズ・ページ数:A5、40ページ

価格:即売会600円、書店800円(税抜き)

通販取り扱い:メロンブックス https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1784228

電子版:BOOTH、BOOK☆WALKER、DLsite、メロンブックスとらのあな、技術書典オンラインショップ(いずれも予定)

サンプル:

www.pixiv.net

目次

はじめに

第1章 Pythonの導入

1.1 はじめに

1.2 Pythonの導入

1.3 MeCabの導入

1.4 ubuntu LTSとneologdの導入

1.5 Pythonを起動してみる

第2章 Pythonの基礎

2.1 はじめに

2.2 四則演算

2.3 関数を自作する

2.4 if/else構文

2.5 for構文

2.6 データセットの型

2.7 文字列の置き換え

2.8 pandasによる表の作成

第3章 Pythonによるテキストマイニングの基礎

3.1 はじめに

3.2 とにかくMeCabを使ってみる

3.3 neologdを使う

3.4 Toknizer

3.5 ファイルから文章を読み込む

3.6 単語数をカウントする

3.7 単語のクロス集計

第4章 対応分析とクラスター分析

4.1 はじめに

4.2 多数のファイルを読み込む

4.3 クラスター分析

4.4 対応分析

第5章 ウェブスクレイピングの基礎

5.1 はじめに

5.2 ウェブから情報を取得する

5.3 仙台市の市長記者会見のサイトからタイトルを抜き出す