後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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【ツイート転載】いまだ残る「底辺」への差別的なまなざし(2017.06.24)

 

anond.hatelabo.jp

 

甲山太郎=甲虫太郎=社虫太郎氏に「素晴らしい若者論」として勧められたこの記事ですが、はっきり言ってどこが素晴らしい記事なのか分かりませんでした。ただの若者バッシングじゃないですか。

確かに元となった今井絵理子氏の「批判なき政治・選挙」という発言に危機感を持っているのは分かります。しかしこの記事のように、そのように「危ない発言をする若者」(今井氏は33歳ですから、確かにいまのネット論壇の主要な消費者層においては「若者」でしょう)が1人いることからそれが「いまの若者」のスタンダードだとされたらたまりません。第一、この記事には今井氏の発言を支持する若者の発言が一切引用されていない。ただ推測だけで若者、それも低学歴の若者のスタンダードだと決めつけられている。その差別構造に気付かないでいられるのは片腹痛い。

そのような差別意識は《学力・教養はかなりの底辺》《ああいう人は年齢のわりに若者文化に親和的》《底辺コミュニティやガキ向けコミュニティをある程度覗いていれば今の若者や子供達が「批判」という言葉をなんか変な風に使ってるのに気付けたはず》などという文言に現れていますが、どれも根拠はありません。というか一部の「ヤンキー」論が言う「ヤンキー文化=いまの「常民」の文化」をトレースしているだけではないでしょうか。

このような「底辺の若者」論がなぜ批判されるべきかというと、このような「底辺の若者」に対してはどのようなバッシングをしてもいいという意識が、いまのリベラル方面のネット言説に渦巻いているからです。2008年の『ケータイ小説的。』(速水健朗原書房)などに端を発する現代の「ヤンキー」論は、いままでオタクばかり語ってきた「批評」、新たに「ヤンキー」をフロンティアにしたものなのですが、それらの言説は若者及び地方都市・郊外文化への差別的なまなざしの上で成り立っている三浦展の「ファスト風土」論を受け継いでおり、オタクの自意識、被害者意識を満たすものにしかなりませんでした。そして冒頭で採り上げた記事はそのような若者論の系譜の延長上にあるものに過ぎません。

このような「批評」が今でものさばっていると言うことは、『現代ニッポン論壇事情』で述べたリベラル系の若者論の論客の現状にも合致します。劣化言説の時代においては「若者」を語れば思想の最前線にいられるという思い込みが蔓延しており、それがリベラル派においても若者バッシングを蔓延させる結果となりました。いま求められているのはそのような「批評」に対する総括です。いまの「論壇を振り返る」的な書籍や雑誌の特集に抜けているのは、このような若者論の系譜の検討です。いまこそ我が国の差別意識を根底において支えてきた若者論にメスを入れるべきときなのです。

 

ちなみに、甲山太郎という社会学者がいかに不誠実な人間であるかについては、下記の記事を。

 

kazugoto.hatenablog.com

あと、こちらのモーメントもお願いします。

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 追記

 

 

 

 

 【さらに追記 2017.06.24】

 

とりあえず、自分にとって気に入らない政党の、比較的若い議員による発言が若い世代のある層の心性を代表していると決めつけるのは、それ自体が若い世代への差別的な視線の発露であり、控えた方がいいのではないかと思います。

小田嶋氏がこのあとの発言で「ヤンキー」論を引き合いに出しているとおり、「ヤンキー」論というのは「自分とは違う」層を勝手に(統計などを用いず)自分たちの「批評」的枠組みに恣意的に当てはめて、「自分たちはマイナーなんだ」という被害者意識に浸る以上のものではないのです。

詳しくは私の同人誌『「ヤンキー」論の奇妙な位相』(Kindlehttp://amzn.to/2tZtb9F  )を読んで欲しいのですが、そういった恣意性と、マーケティング化した若者論の危険性に気付かないままあのような議論をしてしまうのは問題なのです。

そもそも「若者が自分たちの気に入らない政治的流れに(意識的/無意識的に)荷担している」という言説は、2000年代初め頃からの香山リカなどにも見られましたが、結局それは左派による若者バッシングにしかなりませんでした。その愚を繰り返したくなければ、「若者」を引き合いに出すのはやめる。

 

 

【追記 2017.06.25】

続編書きました。

kazugoto.hatenablog.com