後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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【雑記】”ゲンロン”の男らしさ(2021.01.05)

最近折に触れて思い出すのが小田嶋隆の下記のような指摘である。

 

 個人的に「令和の○○」みたいな思考を元号に従属させるような表現はあまり好まないのだが、その点を除けばこの指摘は極めて傾聴に値するものである。政治や社会の状況が行き詰まっていたり、差別が根強く存在する現状において、そのような状況よりもむしろそういった現状に対して声を上げる人たちを嗤うというものだ。そういった人たちは発言の内容とその背景にある社会の状況ではなく、発言者の「態度」や個人的な状況(職業など)を指して主張を無効化しようとする。そしてそういった態度を「男らしい」と誤解している人が多い(そういった態度をとるのは多くの場合が男性だ)。

 

そういった態度を、最近はかつて私がよく絶賛していたジャーナリストの石戸諭に見る。例えば、1月4日に投稿されて、多くの批判(そして政権批判系の人たちからの驚きの声――「この人こんなことを言う人だったのか!?」という)が起ったツイートである。

そもそもリベラルとリバタリアンの区別がついていない、また我が国において「リベラル」と称される側は「自粛と補償はセット」をスローガンに「私権制限するなら十分に補償をしろ」と主張してきた。《緊急事態宣言を出せ、出せと言っていた》というのは極めて一面的なカリカチュアライズに過ぎない。まさか今になってかつて古市憲寿が言っていたような世迷い言を見られるとは思ってもいなかった。

そして極めつけがこちらの発言である。

 

 

 

 何が《(ボソっ)》か!

そもそもこのツイートは、かつて毎日新聞やバズフィードで科学的、専門的な立場を重視して読み応えのある記事を書いていた石戸自身に向けているのだろうか。それはさておくとしても、いくら言いつくろっても、3番目のツイート(私は既にブロックしているユーザーであった)に4番目のツイートのような態度を示したことが、石戸の言うことの「底」を示している。要は単純な当事者主義にを装った左派嘲笑であるということだ。

こういう態度を示す人間にとっては、実家に暮らし賃労働をしながら片手間で評論系同人サークルを運営する私のような人間の物言いなど鴻毛の如きものであろうことを承知で言うが、社会に対して発言する人間の「態度」や職業などの個人的な要素をあげつらうのはただの左派嘲笑でしかないということである。「冷静さ」「偏狭な左派とは違い右派にも人脈がある自分」という2000年代的な、もっと言うと”ゲンロン”的「男らしさ」こそが、かつて私が述べた「言論という麻薬」の正体なのだろう。