後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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「若者のリアル」という虚妄に翻弄される政治言説(2022.06.21)

 朝日新聞が何か下らない連載を始めたらしい。

www.asahi.com

 《選挙のたびに若い世代の投票率や政治への関心の低さが指摘されます。でも、政治やメディアは、その世代の実像を捉え切れているのでしょうか。若手記者が街頭や投票所で一人ひとりの声に耳を傾け、若い世代の解像度を上げていく参院選企画「Voice2022」を始めます。》などと書いているが、のっけから《デジタル・ネイティブならではの的確な表現》などとフルスロットルで偏見抜群。そして極めつけは《若者に対する「解像度」が高そうな大人といえば――。若者に特化したマーケティング研究機関「SHIBUYA109 lab.(ラボ)」所長の長田麻衣さん(31)に会いに行った。毎月約200人のZ世代(15~24歳)の若者に会って話を聞くという》などと。

 私がかつて「現代ビジネス」でも論じたとおり、現在の若者論はもっぱらマーケッターによって主導されている。中には広告代理店と一緒になって若者論的な社会論を展開する社会学者もいるほどだ。

gendai.ismedia.jp

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 原田曜平にしても、あるいはこの記事で採り上げられるマーケッターにしてもそうなのだが、彼らの強みは「常に何人もの若者の話を聞いていること」だと言われる。しかしただ単に「多くの若者から話を聞いている」としても、その視点が最初から偏見に満ちているのであれば意味がないし、そもそもマーケッターなのだから(悪意のある言い方をすれば)若い世代をいかに「消費」の駒にするか、という視点がまずあるはずではないか。

 それ故マーケッターによる若者論というのは、若い世代を主体性のある「市民」として扱わない。消費文化においてちやほやさせて金を使わせるという、消費文化の中では「上客」だが社会においては「二級市民」に過ぎないのだ。

 そういう風に若い世代を「二級市民」に貶める言論が、2010年代半ば以降強い影響を持ってきた。そしていつの間にか、マーケティング的に切り取られた若者像が若者の「リアル」として扱われてきたのだ。いまとなっては右派も左派も「若者と政治」を語るときには「TikTokを見よ。『うっせえわ』を聴け。それが若者のリアルなのだ」と言う。そうやって右派は若者に憑依し(「だから左派は若者に支持されないのだ」)、左派は若者を憎悪する(「こんな若者に俺は殺される」)。うっせえわ。

 マーケッターによる若者論というのがそもそもそういった差別的な構造の上に成り立つものなのだ。そもそも三浦展を中心とするマーケッターは、2000年代半ば~2010年代初頭に掛けて、若い世代の消費スタイルがいかに「異様」であり、頽廃的であるか、そしてそれが社会問題を起こしているかということを書いてきた。そういう態度をとり続けてきたマーケッターたちが、2010年代初頭には一転して「彼らこそが新しい時代の消費を牽引するのだ」と、点数の取り合いになっている野球やサッカーなどの試合における観客のごとく手のひらを返した(私が2009年のワーストと位置付けた三浦と原田の『情報病』(角川書店)はまさにその世代交代というか手のひら返しというかの小腸だ)。だがその態度は、以前のマーケッターが築き上げてきた若い世代に対する偏見の上に成り立つものだ。

 書き手はこう述べる。《まるで実物のように鮮明なデジタル画像に囲まれ、あふれる情報の中から自分に必要なものや好みのものを選び取れるのがあたりまえの時代に育った人たちに、「解像度の低い」言葉や記事はもう通用しない》と。だが本当に必要なのは、マーケティングに潤色された「若者のリアル」なるものを求めるのではなく、若い世代に対する偏見や、若い世代に影響を与えるもの、すなわち上の世代の責任を当物ではないのか。

 この企画は他にも若者バッシングを惹起しそうな記事がある。

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 この手の記事について「若い世代への偏見を煽る」などと言うと、「これは若者バッシングではなく、若者に限らない社会の現実の一端を描き出したものだ」みたいな反論が来ることが多い。しかし、そもそも「若者」を採り上げた時点で何らかのアンコンシャス・バイアスがかかるものだ。そしてそれは読み手にも。そのバイアスから果たして自由なのか、と問い続ける必要がある。

 はっきり言おう。「若者のリアル」など追い求める必要はない。むしろ「若者のリアル」を追い求めたがる考えこそが若い世代を「わかりづらく」している。「若者のリアル」なるものを過度に強調することは、すなわち(上の世代である)「私たち」と「彼ら」に過剰に線引きを行うことに他ならない。「若者の心を掴むにはどうすればいいのか」というマーケティング的な考え方から脱却することこそが、真に「若者と政治」を考える上でのスタートに他ならないのだ。