後藤和智事務所OffLine サークルブログ

同人サークル「後藤和智事務所OffLine」のサークル情報に関するブログです。旧ブログはこちら。> http://ameblo.jp/kazutomogoto/

後藤和智事務所OffLine コミックマーケット100参加情報

8月13日(土)

コミックマーケット100

東京ビッグサイト

東5ホール「ホ」ブロック11a

8月14日(日)

おもしろ同人誌バザール in 大崎

JR大崎駅改札前

後藤和智事務所OffLine

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  • 新刊『New Twitter Analysis Maniax 大改訂増補版』

    kazugoto.hatenablog.com

お品書き(共通)

 

【コミケ100新刊】New Twitter Analysis Maniax 大改訂増補版:rtweet、R、Excel VBA、KH Coderによる真に最強(?)のツイッター分析

【書誌データ】

 書名:New Twitter Analysis Maniax 大改訂増補版:rtweet、R、Excel VBA、KH Coderによる真に最強(?)のツイッター分析

 発行日:2022年8月13日(コミックマーケット100)

 著者:後藤和智後藤和智事務所OffLine)

 サイズ:A5

 ページ数:56ページ

 価格:即売会…700円/書店委託…900円(税抜)

 通販取扱:メロンブックス  https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1592440

 サンプル

www.pixiv.net


 国立国会図書館登録情報:納本予定

 電子書籍BOOK☆WALKERメロンブックスDLほか多数

目次

0.1 はじめに

0.2 大改訂増補版まえがき

第1章 rtweetの導入

1.1 はじめに

1.2 rtweetを始める

1.3 rtweetの代表的なコマンド

1.4 rtweetで取得できるデータ

1.5 必要なデータだけを取り出したい場合

1.6 時間について

第2章 絵文字をExcel VBAで使うための基礎知識

2.1 はじめに

2.2 絵文字の文字コード

2.3 絵文字をExcel VBAで扱うために

2.4 Excelで絵文字を表示してみる

2.5 ではExcel VBAでは?

第3章 リツイート調査1:データの取得

3.1 はじめに

3.2 コマンドの作成

3.4 リツイートデータの集計と集計

3.5 データの絞り込み(Accessは使いません!)

第4章 リツイート調査2:データの分析

4.1 はじめに

4.2 多次元尺度構成法による分析

4.3 クラスター分析

4.4 因子分析

第5章 プロフィールの変換と単語の集計

5.1 はじめに

5.2 プロフィールの変換

5.3 KH Coderを用いた集計

5.4 決定木分析

 

「おたく族の末裔」としての表現規制反対派ムラ――墨東公安委員会「チンドン屋たちの暴走」を批判する(2022.07.09)

. はじめに

 「墨東公安委員会」氏が7月5日に投稿した記事「チンドン屋たちの暴走 SNS時代の「オタク」と表現の自由赤松健氏の出馬について」なる記事が注目を集めています。

 

bokukoui.exblog.jp

 しかしこの記事において、《「オタク」の意味が拡散し、その一角をなしている「表現の自由戦士」たちが、元来のオタクから変質してしまった存在である》や《SNSの普及が、コンテンツとの向き合い方を決定的に変えてしまったのではないかと考えられます》などという分析だったり、自分の世代語りだったり、あるいは《「オタク」で「表現の自由」をネットで叫ぶことにかまけている諸君にこう呼びかけます。スマホを捨てろ、現実に戻る――んじゃなくて、アニメのDVDを1クールぶっ通しで見るとか、徹夜でゲーム(ソシャゲ以外)をするとか、コンテンツに耽溺しようと。ネットの「仲間」よりコンテンツを愛せと》などという「提言」だったりと、俗流若者論的としか言い様がない認識が並ぶことに、正直辟易しています。

 というのも、こういった、それこそ俗流若者論的な「”オタクらしいオタク”が減ったから問題が起こっているのだ」という議論は、恐らく墨東氏も属するであろう左派”オタク”をはじめ、”オタク”全般には受けがいいですが、結局のところ世代論を超えるものではなく、より若い世代や自分の”オタク”としての”青春”時代よりも後に生まれた文化に責を押しつけがちになるからです。

 実際、墨東氏の《徹夜でゲーム(ソシャゲ以外)をする》という記述には、ソーシャルゲームに耽溺することは、少なくとも墨東氏にとっては”オタク”的行為ではないのか、だったら「艦隊これくしょん」や「ステーションメモリーズ!(駅メモ)」で同人誌を作っていて、後者にはとてつもなくはまっている私はどうなるのか、という文句の一つも言いたくなります。

 まあそういった私の感情の問題は措くとして、私が「表現規制反対派ムラ」と呼ぶ存在、ツイッターの左派”オタク”や彼らに批判的な人たちからはもっぱら「表自(界隈)」などと呼ばれる存在が、果たして「コンテンツへの耽溺の仕方を忘れたオタク」なのかということに、私ははっきりと異議を唱えたいと思います。

2. 中島梓『コミュニケーション不全症候群』から

 このことを考える上で参考になるのが、批評家の中島梓(作家の栗本薫でもある)が1991年に発表した『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房/ちくま文庫、1995年)における次の記述です(なお、引用に際しては、ある種の性格や社会的性向を病気になぞらえる表現がありますが、書籍が書かれた時代背景を鑑み、そのまま引用します)。

 そして、ことに若い層に多く典型的にあらわれるこの種の障害(筆者注:中島が「コミュニケーション不全症候群」と呼ぶもの)としておタク族があげられる。それはたいへんかんたんに要約するならば、競争社会に不適格で現実のなかに「自分の居場所を持てない」ために脱落せざるを得ない個体が、現実でなく非現実のなかに自分の居場所を見出そうとして虚構世界への逃避に走っている存在であり、その分裂症の境界例ともいうべき人種にとっては虚構のほうが現実よりもはるかに重大なものとして認知されていること。そして世界をそのように認知するがゆえに、彼らは他者を人間として認知する能力に欠陥があり、(略)自己の内的宇宙に侵入した他者を外敵として拒否すること。(略)(中島梓『コミュニケーション不全症候群』ちくま文庫、1995年、p.265)

 おタクたちはその社会の規範をまったくないことにして彼ら独自の規範をつくりあげることを選んでしまったのであるから、そこには同類と非・同類よりほかの分類はない。また、その同類という範疇は大変せまいから、「普通人」がゆきずりのだれかと喧嘩して相手に大怪我をさせてしまった、という以上に、おタクが当然知っているはずの声優の名前を知らなかったりすることは、おタクにとってのパニックになり、顰蹙になり、罪悪になるであろう。それは彼らの「仲良きことは美しきかな」を一瞬にして打砕くのである。それは共同幻想の破壊であるのだから、私達がその感覚を理解できないからといって、おタクたちを批判することはできない。彼らは要するに2分法によってしか世界を感じることができないのだ。そのAとBのあいだには、どんな緩衝地帯も存在しないのである。

 端的にいえば、おタクたちは、アニメであればアニメのもっとも微細な出来不出来とか、この背景処理の見事さにだけ感応するが、目の前で繰り広げられる現実の人間ドラマや現実の夕日の美しさには感応しなくなってしまった少年である。もちろんこれは極端であって、すべてのおタクがそうだというようなことをいうつもりはないし、またおタクということばで象徴されるかなり特殊な感性だけがこういう構造を持っているわけでもないが、しかしおタクの精神構造は基本的にこう定義できる方向をもっているのもたしかである。(中島前掲pp.85-86)

 いささか”オタク”に批判的にすぎる文章だと思いますし、また当時流行していた精神分析的批評の影響も強く見られますが(ついでに言うと同書のフェミニズム観も極めて一面的で偏見にまみれていることは指摘しておきますが、それは本稿とはあまり関係ないので省略します)、それでもこれらを含む中島の指摘は、むしろ表現規制反対派ムラの現在を予見しているようにも思えます。

 そもそも「おたく族」というのは、ある種の趣味嗜好の男性が相手のことを「お宅」と呼ぶことからつけられたものなのですが、中島はこの「お宅」という二人称にこそ本質があると述べています。それは第一に《相手の名前を呼ぶことを拒否》すること、第二に《自分の陣地を守るんだぞ、という態度を明らかにした》つまり「自分の家から相手の家に呼びかける」こと(中島前掲pp.49-50)。

 中島は「おタク」について、《自分の疑似現実のなかにとじこもって現実の競争社会を拒否してしまい、そのかわりのさまざまなおもちゃを現実におきかえ、子供だけの社会を作り上げて生きることを選んだ》(中島前掲p.81)とし、社会の変化に対する過剰適応だとしています。過剰適応というのは、表現規制反対派ムラの行動に対しても、フェミニズムやLGBTQ+を攻撃することで自分の「男性性」を過剰に誇示するということが、男性社会への過剰適応であるということがたびたび指摘されます。

 中島の指摘から見えてくるのは、”オタク”というのはコンテンツではなくむしろコミュニケーションに規定される存在であるということではないでしょうか。だから表現規制反対派ムラの暴走を「コンテンツへの耽溺の仕方を忘れた」と批判したところで、それはただの「オタクらしいオタクが減った」という世代論にしかならないのではないでしょうか。

 「オタク」というのは、「おたく族」(中島の言うところの「おタク」)という言葉につきまとう暗いイメージに対して「求道者」的な明るいイメージをつけることで払拭しようとする、いわば社会運動的なものであり、「おたく族」という言葉は廃れ「求道者」「趣味者」としての「オタク」という言葉は生き残りました。しかしそれとともに、「おたく族」的な心性と向き合わないまま(すなわち、他者と向き合わないまま)エリート層や論客層が40年近く過ごしてきたことが、問題を引き起こしているのではないでしょうか。これは「いまこそコンテンツに回帰せよ」という左派”オタク”に見られがちな提言も同様です。

2.「批評」と世代論

 墨東氏は《コンテンツは、鑑賞や批評の対象というよりも、「みんなで盛り上がる」手段と化してしまったのではないでしょうか。すると小難しい批評は嫌われ、定型フレーズをネットの「みんな」で叫ぶことで一時の快を貪る、そういう人が増えたのです》と述べますが、”オタク”界隈の「批評」なるものを、商業誌や商業媒体、ならびに同人誌で批判的に取り扱ってきた私としては、果たしてそんな「批評」が社会に何をもたらしましたか、結局は内輪だけで言葉を消費しただけではないのですか、と言いたいです。内輪だけで消費される「批評」に価値があるなど、笑止千万としか言い様がありません。

 それに、その「批評」の担い手、例えば東浩紀宇野常寛斎藤環福嶋亮大などといった書き手は、一部はテレビコメンテーターに成り上がった人物もいますが、その多くが、政権批判批判、差別批判批判に腐心していたり(白票投票をよびかけた東などはその典型です)、女性差別的な言動をツイッターなどで批判される人物も多く、マシなほうでも中立仕草ばかり、というのが現状です(他方で主として女性によるジェンダー系の批評は彼らの流れとはほぼ無関係に発展を遂げてきました)。

 内輪で消費される「批評」が外に対して影響力を持つとき、それは大抵世代論(若者論)という形を取ります。東浩紀の『動物化するポストモダン』や香山リカの『ぷちナショナリズム症候群』、荷宮和子の『バリバリのハト派』などはその典型でしょう。それは社会不安の責任を「若者」になすりつけるような時代の要請に即したものであり、若者論として受け入れられることによって過大評価されてきたように思えます。

 また、一部の層からは不倶戴天の敵のごとく扱われる、「草食系男子」という言葉の生みの親である深澤真紀も、「草食系男子」につながる一連の連載の中で「チェック男子」という言葉を作り上げたときは「今の若いオタクはオタクではなく「チェック男子」だ」という言説が流行りました。岡田斗司夫も『オタクはすでに死んでいる』という、若い世代を問題視する本を出していました。一迅社の『Febri』に掲載及び連載されていた飯田一史の「あたらしいオタクの肖像」「「オタク」は死語になっていた」もまあ世代論です。みんな世代論がお好きですね。

 また、本田透電波男』は、努力して女性に好かれようとした『電車男』的なものを強く否定し、自分たちは二次元に逃げ込んで真の愛を手に入れる(手に入れた)んだ、「あいつら」は所詮は資本主義に犯された偽物だ、ということを述べました。この本が「オタク」界隈における反フェミニズムに与えた影響は大きいのではないでしょうか。

 それ以外にも、速水健朗ケータイ小説的。』を起点とする「ヤンキー」論が、2012年の衆議院議員総選挙における斎藤環の「日本人=ヤンキー」説が注目を浴びました。

 これらの議論を総合して言えるのは、”オタク”における批評というものは、内輪で消費されるものと、ここまで挙げた社会評論のように「彼ら」と「我々(オタク)」に対して過剰に線引きして後者を排撃するものであり、また「彼ら」には若い世代や女性といった権力勾配の下にある存在、そして「一般人」というふわっとした存在が対象になってきました。左派”オタク”において「普通の日本人」や若い世代をけなして絶望してみせる人が多いのも、こういった志向性と合致しています。

 

kazugoto.hatenablog.com

 私が接してきた左派”オタク”の多くは認めようとしませんが(それ故平然と若い世代を憎悪するが本人はそれも認めようとしない)、長幼の序という言葉があるとおり、年齢というのは性別と並んで最も身近な権力勾配です。「若者」より年齢が高い年長者、男性、シスジェンダーヘテロセクシュアルといった自らの立ち位置を自覚しようとするのではなく、むしろ積極的に行使するというのは、表現規制反対派ムラだけでなく左派”オタク”にもよく見られます(一番多いのはトランスジェンダー差別。次いで若者差別)。

3. 嘲笑とからかいの政治学

 また、”オタク”的評論、批評には、いわゆる「トンデモ本」や「クソゲー」などをレビュー、紹介し、酷評するものがあり、現在もYouTubeニコニコ動画を中心によく見られます(私もかつてよく見ていましたが、最近は普通のゆっくり実況やRTA in Japanの動画ばかり見ています)。

 そのような評論・批評が依って立つ認識として、特に陰謀論などの「荒唐無稽」な本に対して、「これらの本の蔓延を防ぐことはできない、だから笑い飛ばそう」というものがあります。実はこの「笑い飛ばす」という行為が非常に厄介で、社会的多数派は「笑い飛ばす」ことで女性解放運動をはじめとする種々の社会運動を無効化しようとしてきました。江原由美子の言うところの「からかいの政治学」です(詳しくは江原『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫、2021年)。

 ”オタク”界隈におけるフェミニズムや反差別への攻撃は、遊び感覚で行われていることは彼らの言動を見た人間からすればよくわかるかと思います。ネットミームや使い回された画像リプライを多用し、「発狂」とかいう表現を使い、そしてwhataboutismに基づく「混ぜ返し」を繰り返す。コンテンツやキャラクターはそれらのための道具に過ぎません。静岡県熱海市のとある居酒屋が受けているネットハラスメントはまさにその典型例です。

 中島梓の『コミュニケーション不全症候群』には、「おタク」が”子供”であるためには《「おタク的寄生のもとになるべき栄養」――つまりパロディのもとになる「原典」をたえまなく供給してくれる、大人、あるいは大人社会に組込まれた新しい才能が彼らの幸福な疑似社会の外側に広がっていなくてはならないのだから、しょせん彼らがえらんだ道は逃避であり、責任拒否であるにすぎないといわれてもしかたがないのである》(中島前掲p.82)と書かれています。そして表現規制反対派ムラの行動は、フェミニストや立憲野党、反差別活動(家)、そしてそれに「荷担している」と決めつけられた存在そのもの、つまり現実の存在そのものをコンテンツにして遊んでいるものに他なりません。

 そんな状況下において、「コンテンツに回帰せよ」と言うことに、どれほどの意味があるのでしょうか。彼らにとっては現実こそがおもちゃ、コンテンツなのですから。

4. 本丸はコンテンツではなくコミュニケーションだ

 表現規制反対派ムラをめぐる問題の本丸は、コンテンツではなくコミュニケーションにあることは明白です。それを解体するためにはジェンダー論(とりわけ男性学)の力を借りる必要がありますが、ここでは詳しく述べることはしません。ただ、表現規制反対派ムラは「おたく族の末裔」であり、決して「劣化したオタク」ではないということははっきりと述べておきたいです。言うなれば、彼らこそが最も「オタクらしいオタク」ということです。

 私はかつて「若者論オタク」と自称していましたが、最近はやめています。なぜなら「オタク」というものはもともとジャンルを問わないものであり、ジャンル自体が後付けであること、そして「オタク」を自称することが排外主義的な「オタク」コミュニケーションに取り込まれることを懸念しているからです。私は一介の同人作家であり、若者論マニアということにしています。「ファン」「マニア」「フリーク」などは確実にジャンルを問われますから。

 必要なのは「コンテンツに回帰せよ」ではなく「相手を人間として尊重せよ」であり、また表現規制反対派ムラを批判している左派も、世代論(若者論)に見られるような権力志向を反省せよ、ということです。そうでないと、結局ただの若者論にしかならない、ということを若者論マニア、論壇マニアとしてはっきり言っておきたいです。

私が求めていることは、要約すれば、決して特別なことではないと思います。

女性を人間として、ふつうに尊重すること。

「男らしさ」を競うことをやめ、「男らしくない」人をバカにしないこと。

自分の孤独や不安を、勝手に自分より「下」と決めつけた他人を貶めることで紛らそうとしないこと。(太田啓子『これからの男の子たちへ:「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店、2020年)p.255)

 

wezz-y.com

 

 

【声明】言論を脅かすすべての暴力と、それに便乗したヘイトスピーチに抗議する(2022.07.08)

(2022.07.08更新 少しだけ表現を変えました) 

 2022年7月8日、安倍晋三・元首相が、演説中に銃撃されるという、非常に許しがたいテロ事件が起こりました。

 それ以外にも、今回の選挙戦においては、立憲民主党福山哲郎候補が暴行を受けたり、同党の辻元清美候補が様々な妨害・襲撃を受けていたり、また自民党などから出馬した、新疆ウイグル自治区にルーツを持つ候補者が支持者から差別的言動を受けてきたりと、差別と暴力にまみれた選挙戦においての、最悪の事態となってしまいました。

 それと同時に、昨日から今日に掛けてのツイッターでのトレンドに、辻元清美候補の受けた襲撃に関する評価として「自業自得」というものがあったことも忘れてはなりません。言論や政治活動に対する暴力を容認する傾向は既にありました。

 後藤和智事務所OffLineは、これらのような、言論の自由と平等を脅かす暴力・差別に改めて最大級の抗議をすると同時に、事件に便乗したヘイトスピーチにも最大級抗議し、また事件に便乗した政治的言論・集会の自由の規制にも強く反対します。また、被害者に対する「自業自得」論にも反対します。

 それとともに、「安倍晋三の時代」を言論によって終わらせることができなかった私の力不足を重く受け止め、同時代の「言論」と政治に対する批判を終わらせないことを表明します。

 #私たちが求めているのは民主主義であって暴力ではない

 2022年7月8日 後藤和智事務所OffLine 代表 後藤和智

「若者のリアル」という虚妄に翻弄される政治言説(2022.06.21)

 朝日新聞が何か下らない連載を始めたらしい。

www.asahi.com

 《選挙のたびに若い世代の投票率や政治への関心の低さが指摘されます。でも、政治やメディアは、その世代の実像を捉え切れているのでしょうか。若手記者が街頭や投票所で一人ひとりの声に耳を傾け、若い世代の解像度を上げていく参院選企画「Voice2022」を始めます。》などと書いているが、のっけから《デジタル・ネイティブならではの的確な表現》などとフルスロットルで偏見抜群。そして極めつけは《若者に対する「解像度」が高そうな大人といえば――。若者に特化したマーケティング研究機関「SHIBUYA109 lab.(ラボ)」所長の長田麻衣さん(31)に会いに行った。毎月約200人のZ世代(15~24歳)の若者に会って話を聞くという》などと。

 私がかつて「現代ビジネス」でも論じたとおり、現在の若者論はもっぱらマーケッターによって主導されている。中には広告代理店と一緒になって若者論的な社会論を展開する社会学者もいるほどだ。

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

 原田曜平にしても、あるいはこの記事で採り上げられるマーケッターにしてもそうなのだが、彼らの強みは「常に何人もの若者の話を聞いていること」だと言われる。しかしただ単に「多くの若者から話を聞いている」としても、その視点が最初から偏見に満ちているのであれば意味がないし、そもそもマーケッターなのだから(悪意のある言い方をすれば)若い世代をいかに「消費」の駒にするか、という視点がまずあるはずではないか。

 それ故マーケッターによる若者論というのは、若い世代を主体性のある「市民」として扱わない。消費文化においてちやほやさせて金を使わせるという、消費文化の中では「上客」だが社会においては「二級市民」に過ぎないのだ。

 そういう風に若い世代を「二級市民」に貶める言論が、2010年代半ば以降強い影響を持ってきた。そしていつの間にか、マーケティング的に切り取られた若者像が若者の「リアル」として扱われてきたのだ。いまとなっては右派も左派も「若者と政治」を語るときには「TikTokを見よ。『うっせえわ』を聴け。それが若者のリアルなのだ」と言う。そうやって右派は若者に憑依し(「だから左派は若者に支持されないのだ」)、左派は若者を憎悪する(「こんな若者に俺は殺される」)。うっせえわ。

 マーケッターによる若者論というのがそもそもそういった差別的な構造の上に成り立つものなのだ。そもそも三浦展を中心とするマーケッターは、2000年代半ば~2010年代初頭に掛けて、若い世代の消費スタイルがいかに「異様」であり、頽廃的であるか、そしてそれが社会問題を起こしているかということを書いてきた。そういう態度をとり続けてきたマーケッターたちが、2010年代初頭には一転して「彼らこそが新しい時代の消費を牽引するのだ」と、点数の取り合いになっている野球やサッカーなどの試合における観客のごとく手のひらを返した(私が2009年のワーストと位置付けた三浦と原田の『情報病』(角川書店)はまさにその世代交代というか手のひら返しというかの小腸だ)。だがその態度は、以前のマーケッターが築き上げてきた若い世代に対する偏見の上に成り立つものだ。

 書き手はこう述べる。《まるで実物のように鮮明なデジタル画像に囲まれ、あふれる情報の中から自分に必要なものや好みのものを選び取れるのがあたりまえの時代に育った人たちに、「解像度の低い」言葉や記事はもう通用しない》と。だが本当に必要なのは、マーケティングに潤色された「若者のリアル」なるものを求めるのではなく、若い世代に対する偏見や、若い世代に影響を与えるもの、すなわち上の世代の責任を当物ではないのか。

 この企画は他にも若者バッシングを惹起しそうな記事がある。

www.asahi.com

 この手の記事について「若い世代への偏見を煽る」などと言うと、「これは若者バッシングではなく、若者に限らない社会の現実の一端を描き出したものだ」みたいな反論が来ることが多い。しかし、そもそも「若者」を採り上げた時点で何らかのアンコンシャス・バイアスがかかるものだ。そしてそれは読み手にも。そのバイアスから果たして自由なのか、と問い続ける必要がある。

 はっきり言おう。「若者のリアル」など追い求める必要はない。むしろ「若者のリアル」を追い求めたがる考えこそが若い世代を「わかりづらく」している。「若者のリアル」なるものを過度に強調することは、すなわち(上の世代である)「私たち」と「彼ら」に過剰に線引きを行うことに他ならない。「若者の心を掴むにはどうすればいいのか」というマーケティング的な考え方から脱却することこそが、真に「若者と政治」を考える上でのスタートに他ならないのだ。

〈Z世代幻想〉と左派”オタク”(2022.05.26)

というツイートをしたところ、このような返答があった。

そもそも私が冒頭のようなツイートをしたのは、冒頭で採り上げた人物が、次のようなツイートを(私が見る限りでは)思い出したように行っていたことにある。

そもそも、《若い世代は差別意識が低い》という言説の正当性を措くとしても、数例の「衝撃的」な事例で全体的な傾向を否定するのは若者バッシングの常套手段であり、しかも「大嘘」という言葉を使うことによって強く否定している。

それでは彼が一体何を懸念しているのかというと、《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そうとする》ことなのだという。例えば、ソーシャルワーカー鴻巣麻里香が娘の発言として、とある映画における若者像に「自分たちをステレオタイプに描くな」という(それこそ若いときの私もよく抱いていた)発言を紹介したことを、「Z世代幻想」と表現していた。

これに対して私はこのように批判している。

さて冒頭で、私は「いまの若者は差別意識が低い」という言説を《そんなに大々的に肯定されているか?》と言った。実際問題、Lhasaの言う《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そう》としているのは、左派よりも右派ではないか。若い世代の口を借りたり憑依したりして「立憲野党や左派はいまの若者に支持されていない!」と述べる言説を、マスコミからネットに至るまで何度と見てきた。若い世代が左派的だとか差別意識が低いというのは、SEALDsの全盛期ならいざ知らず(いや、SEALDsの全盛期でも)極めて少数派ではないか。

関連ツイート:

若者に憑依したり、若者の口を借りたがる右派論客はたくさんいるし、またABEMAニュースなどのコメンテーターのラインナップを見るとおり、メディアに登場する若い世代はもっぱら自民・維新的な考え方を持つ人間が主流としか言い様がない。表立って社会批判、政権批判を言えるようなコメンテーターは、私の世代周辺以下だと、せいぜい荻上チキと安田菜津紀くらいではなかろうか。少なくともメディアに登場する表象においては、「若者=アンチレフト、左派不支持」という図式が圧勝している。若い世代は差別意識が低い、という言説は、むしろ反差別運動を行っている若い層のナラティブではないかと思われる。

《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そう》という動きに反対したければ、若い世代に憑依する右派をこそ批判せよ、というのは何も単なるwhataboutismで言っているのではない。むしろ、ロスジェネ・親ロスジェネ論客によって「左派は若者の敵だ!」的な言説が煽られ、その流れを汲む論客によって「若者は左派を支持していない」という雰囲気が作られることで、若い世代から左派を支持するという選択肢が奪われているという現状があるし、何より右派こそが「戦後民主主義」や「左派支配」の脱却という夢(願望とも言う)を若い世代に託している。

だから安倍政権を批判的に総括した記事を書いた私に対して呉座勇一が「若年寄化」していると評したり、また大阪”都構想”の住民投票において20代の支持率が30代・40代より低かったことに対して激怒してしまったりするのである。

note.com

少なくともメディアに登場する表象においてあまり支持されていない「若者は差別意識が低い」という言説をかくも熱心に否定したがる心性は何か。それは《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そう》とする動きに対する批判ではなく、むしろ若い世代に対する偏見の正当化ではないか。

例えばLhasaはこう言う。

なるほどこれも確かに事実の一端ではある。しかし、若い世代がネットによってどんどん憎悪や劣等感を育んでいく「可能性」を過度に強調しすぎるきらいがあるのではないか。それは若い世代が過剰に持ち上げられている(だが、若い世代を過剰に持ち上げているのはむしろ右派だろう)という意識が強いからだろう。

Lhasaは、右派においてもとりわけ若い世代に憑依したり、若い世代の口を借りたがるそうである表現規制反対派ムラに対して歯切れのいい批判を繰り返してきた。私もそれに対して幾度となく快哉を叫んできた。その過程で若い世代を過剰に持ち上げるような傾向に嫌気がさしてしまうのも理解できる。だが仮にそうだとしても、なぜその矛先を右派ではなくどちらかと言えば左派、反差別的な傾向の人に向けたがるのか。

鴻巣麻里香の言説を「Z世代幻想」と評したこと、そして右派による若い世代に憑依したり口を借りたがる言説そのものへの批判は比較的少なく、それどころか「若い世代が学習性無力感にさいなまれて自民や維新を支持する」みたいなことは積極的に採り上げることから、結局のところ自分の想定する「若者」から外れるものを視界から排除したい、そしてリベラル的である自分にとって「自民や維新を支持する傾向が高い」と言われている若い世代は自分の「敵」でなければならない、という考えが強いからではないか。

それはLhasaとの次のようなやりとりで確信したことである。

最後のツイートにおける物言いに、私はこの書き手における、底知れぬ若い世代への敵愾心を感じた。社会問題に関心を持つ若い世代を孤立させてはならない、という言説に《そこにつけ入る奴ら》という言葉を使って返すことで、社会問題に関心のある若い世代に関わること、ひいてはそんな若い世代そのもの、そして若い世代全体を敵視しているのではないか、と思うようになった。

若い世代に憑依・仮託したがる勢力としての右派よりも左派に対して警鐘を鳴らすのは、結局のところ「俺は若い世代を過剰に持ち上げたがる奴らとは違うんだぞ」という、仲間内での差異化によって居場所を見出すさもしい”オタク”根性でしかない。

消費文化の中にいると、若い世代(や女性)のことをさも強者のことであるかの如く錯覚してしまう。若い世代も女性も現実世界では社会的強者ではないのだが、社会認識の軸足が消費社会中心になってしまうと、その感覚が狂うのではないか。それが、例えば右派”オタク”においては反フェミニズムの温床になっている一方で、過剰に若い世代に過剰に憑依したがる傾向の温床にもなっている。それを見た左派”オタク”が右派を嘲笑する目的で表面的にフェミニズムを支持する一方で、若い世代を憎悪する。フェミニズム叩きや女性差別で盛り上がる右派”オタク”と、表現規制反対派ムラを嘲笑しつつ若い世代や”普通の日本人”を嘆いてみせる左派”オタク”は表裏一体の存在だ。

そしてそんな状況において「若者」との距離感を狂わせ続け、そしてネットの左派内での立ち位置確認に明け暮れ、その中で育んできた意識とその表出――それは、少なくとも私は、憎悪であり、差別であると言いたい。

 

【リリース】後藤和智事務所OffLine コミックマーケット99(新日程)出展情報

コミックマーケット99(新日程)

2021年12月31日

東京ビッグサイト

東2ホールNブロック28a

後藤和智事務所OffLine

Webカタログ:

https://webcatalog.circle.ms/Circle/15705797

 

お品書き

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また、12月30日には、JR大崎駅改札前で開催される「大崎コミックシェルター」内「おもしろ同人誌バザール」にも出展します。

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