そもそも疑問なのは、若者論批判に対しては「若者論批判は若者の問題点を覆い隠す」という反批判がなぜか見られるということである。例えば女性、在日外国 人、生活保護受給者に対するバッシングは数多くあるが、それに対する批判も多い。私はそのような批判の多くを支持している。それに対して、私はそれらの批判が在日外国人や生活保護受給者の問題点を覆い隠している、という反批判は寡聞にして聞かない。当たり前だ。
だからこそ私が 甲山某に一番はじめに問うたのは「その私への誹謗の「若者」を「女性」「在日外国人」「生活保護受給者」に置き換えてみろ」だった。
これに対して、甲山は自らの〈実務家〉性を笠に着て、自らの差別的な視線からひたすら逃げ続けた。ここに見られるのは、若い世代における「格差」の存在(広がり、ではない)についてその被害を受けているのは自分だという立場だ。
階層化している、ないし階層化した若者たちは加害者であって、自らは被害者だ、という言説は、香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(最近ちくま新書から再版された)や荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか』などに見られる認識である。甲山の認識は、そのような認識を未だに引きずっているということである(他にこのような認識を持っている人として、かつての三浦展や内田樹などが挙げられる)。
これは右派が1990年代から行っている若い世代に対するスティグマ化とはまた違った形で若い世代にスティグマを付与してきた。そのような、主に左派によるスティグマ化を支持する人たちは、それを批判する側もまた加害者であるという批判を行ってきた。2013年の段階ですら、このようなエントリーが書かれている。
これは、2000年代における若い世代を研究する社会学の少なくない部分が、現代の若い世代が今までの世代とは「違う」ことを所与の問題として、公共政策的な視点ではなく、社会防衛的な視点から、そのような若い世代の「変化」に対して社会はいかに向き合うかという視点で行われている。これは、宮台真司や香山リカなどといった若者バッシングに親和的な言説はもとより、浅野智彦氏や中西新太郎氏などといった学術的な研 究者においても無視できないレベルで見られるものである。
それに対して若者論批判は、若い世代の「変化」はとりあえず措いて、通俗的な青少年言説がどのように間違っているのか、それが政策にどのような悪影響を及ぼしているのかを批判してきた。若い世代の「変化」を至上命題とする 若者論に慣れ親しんできた論者にとっては、若い世代の「変化」をとりあえず措いておく若者論批判に違和感を覚えるのだろう。
甲山某に戻ると、彼は明らかに、1990年代より行われてきた若者の「変化」、そして「劣化」言説を自らの拠り所にして、ヒロイズムに浸っている論客と言うことができる。彼にとっては、劣化言説の時代に主に左派によって行われてきた、階層化している若い世代を社会に対する「加害者」と捉え、自らの教えている学生はその表出ないし尖兵であり、それをケアすることによって社会を改善することができる、と考えているのだろう。そして若い世代、特に甲山某が「下」の階層と見なしている若い世代を擁護している(と勝手に認識している)、後藤和智(を代表とする劣化言説批判者)もまた社会に対する「加害者」である、というロジックと考えられる。
このような甲山某の認識は、ひとり甲山の個人 的資質に帰するべきものではなく(まあ個人的資質もものすごく大きいとは思うけど)、我が国の2000年代以降の一部の社会学が抱えてきた宿痾であるとも考えた方がいいだろう。
ちなみに私が過去に甲山某に言及してきたのは以下の通り。
また甲山某がいかに不誠実な論客であるかについてはこちらも参照されたい。
逆襲のしんかいちゃん: 甲虫先生との論争について (山川賢一氏)