後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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〈Z世代幻想〉と左派”オタク”(2022.05.26)

というツイートをしたところ、このような返答があった。

そもそも私が冒頭のようなツイートをしたのは、冒頭で採り上げた人物が、次のようなツイートを(私が見る限りでは)思い出したように行っていたことにある。

そもそも、《若い世代は差別意識が低い》という言説の正当性を措くとしても、数例の「衝撃的」な事例で全体的な傾向を否定するのは若者バッシングの常套手段であり、しかも「大嘘」という言葉を使うことによって強く否定している。

それでは彼が一体何を懸念しているのかというと、《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そうとする》ことなのだという。例えば、ソーシャルワーカー鴻巣麻里香が娘の発言として、とある映画における若者像に「自分たちをステレオタイプに描くな」という(それこそ若いときの私もよく抱いていた)発言を紹介したことを、「Z世代幻想」と表現していた。

これに対して私はこのように批判している。

さて冒頭で、私は「いまの若者は差別意識が低い」という言説を《そんなに大々的に肯定されているか?》と言った。実際問題、Lhasaの言う《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そう》としているのは、左派よりも右派ではないか。若い世代の口を借りたり憑依したりして「立憲野党や左派はいまの若者に支持されていない!」と述べる言説を、マスコミからネットに至るまで何度と見てきた。若い世代が左派的だとか差別意識が低いというのは、SEALDsの全盛期ならいざ知らず(いや、SEALDsの全盛期でも)極めて少数派ではないか。

関連ツイート:

若者に憑依したり、若者の口を借りたがる右派論客はたくさんいるし、またABEMAニュースなどのコメンテーターのラインナップを見るとおり、メディアに登場する若い世代はもっぱら自民・維新的な考え方を持つ人間が主流としか言い様がない。表立って社会批判、政権批判を言えるようなコメンテーターは、私の世代周辺以下だと、せいぜい荻上チキと安田菜津紀くらいではなかろうか。少なくともメディアに登場する表象においては、「若者=アンチレフト、左派不支持」という図式が圧勝している。若い世代は差別意識が低い、という言説は、むしろ反差別運動を行っている若い層のナラティブではないかと思われる。

《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そう》という動きに反対したければ、若い世代に憑依する右派をこそ批判せよ、というのは何も単なるwhataboutismで言っているのではない。むしろ、ロスジェネ・親ロスジェネ論客によって「左派は若者の敵だ!」的な言説が煽られ、その流れを汲む論客によって「若者は左派を支持していない」という雰囲気が作られることで、若い世代から左派を支持するという選択肢が奪われているという現状があるし、何より右派こそが「戦後民主主義」や「左派支配」の脱却という夢(願望とも言う)を若い世代に託している。

だから安倍政権を批判的に総括した記事を書いた私に対して呉座勇一が「若年寄化」していると評したり、また大阪”都構想”の住民投票において20代の支持率が30代・40代より低かったことに対して激怒してしまったりするのである。

note.com

少なくともメディアに登場する表象においてあまり支持されていない「若者は差別意識が低い」という言説をかくも熱心に否定したがる心性は何か。それは《世代論によって「我々とは違う、彼らは希望だ!」と自分達から切り離し若者に過大なものを背負わせ未来を託そう》とする動きに対する批判ではなく、むしろ若い世代に対する偏見の正当化ではないか。

例えばLhasaはこう言う。

なるほどこれも確かに事実の一端ではある。しかし、若い世代がネットによってどんどん憎悪や劣等感を育んでいく「可能性」を過度に強調しすぎるきらいがあるのではないか。それは若い世代が過剰に持ち上げられている(だが、若い世代を過剰に持ち上げているのはむしろ右派だろう)という意識が強いからだろう。

Lhasaは、右派においてもとりわけ若い世代に憑依したり、若い世代の口を借りたがるそうである表現規制反対派ムラに対して歯切れのいい批判を繰り返してきた。私もそれに対して幾度となく快哉を叫んできた。その過程で若い世代を過剰に持ち上げるような傾向に嫌気がさしてしまうのも理解できる。だが仮にそうだとしても、なぜその矛先を右派ではなくどちらかと言えば左派、反差別的な傾向の人に向けたがるのか。

鴻巣麻里香の言説を「Z世代幻想」と評したこと、そして右派による若い世代に憑依したり口を借りたがる言説そのものへの批判は比較的少なく、それどころか「若い世代が学習性無力感にさいなまれて自民や維新を支持する」みたいなことは積極的に採り上げることから、結局のところ自分の想定する「若者」から外れるものを視界から排除したい、そしてリベラル的である自分にとって「自民や維新を支持する傾向が高い」と言われている若い世代は自分の「敵」でなければならない、という考えが強いからではないか。

それはLhasaとの次のようなやりとりで確信したことである。

最後のツイートにおける物言いに、私はこの書き手における、底知れぬ若い世代への敵愾心を感じた。社会問題に関心を持つ若い世代を孤立させてはならない、という言説に《そこにつけ入る奴ら》という言葉を使って返すことで、社会問題に関心のある若い世代に関わること、ひいてはそんな若い世代そのもの、そして若い世代全体を敵視しているのではないか、と思うようになった。

若い世代に憑依・仮託したがる勢力としての右派よりも左派に対して警鐘を鳴らすのは、結局のところ「俺は若い世代を過剰に持ち上げたがる奴らとは違うんだぞ」という、仲間内での差異化によって居場所を見出すさもしい”オタク”根性でしかない。

消費文化の中にいると、若い世代(や女性)のことをさも強者のことであるかの如く錯覚してしまう。若い世代も女性も現実世界では社会的強者ではないのだが、社会認識の軸足が消費社会中心になってしまうと、その感覚が狂うのではないか。それが、例えば右派”オタク”においては反フェミニズムの温床になっている一方で、過剰に若い世代に過剰に憑依したがる傾向の温床にもなっている。それを見た左派”オタク”が右派を嘲笑する目的で表面的にフェミニズムを支持する一方で、若い世代を憎悪する。フェミニズム叩きや女性差別で盛り上がる右派”オタク”と、表現規制反対派ムラを嘲笑しつつ若い世代や”普通の日本人”を嘆いてみせる左派”オタク”は表裏一体の存在だ。

そしてそんな状況において「若者」との距離感を狂わせ続け、そしてネットの左派内での立ち位置確認に明け暮れ、その中で育んできた意識とその表出――それは、少なくとも私は、憎悪であり、差別であると言いたい。