後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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『検証・格差論』第11章 ロスジェネ・メディアの世代認識――『AERA』に見るロスジェネ世代の特別視と他世代への攻撃性に関する考察

はじめに

本書は2012年にAmazonにてオリジナルの電子書籍として刊行し、2015年に同人誌『検証・格差論』に収録したものですが、近年の言論状況を鑑み、本稿を同書の無料サンプルとして公開いたします。「ロスジェネ」がいかに上下の世代を叩き、持ち上げてきたかの記録です。

なお、『検証・格差論』は下記のサイトで電子書籍として配信しております。

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1. 問題意識

朝日新聞が、主に1970年代中頃~1980年代初期生まれの、所謂「就職氷河期」に大学を卒業した世代を「ロストジェネレーション」と呼び、その世代が抱える社会的な問題を可視化したのは2007年の話である。「ロストジェネレーション」はいつしか「ロスジェネ」という呼称に短縮され、この世代の現状と、そして可能性が様々なところで論じられるようになった。『ロスジェネ』(かもがわ出版)という、名付けられた世代名を冠する雑誌まで登場したほどだ。

それから5年の歳月が流れた。この世代の労働環境をめぐる言説は、例えば毎日新聞の「リアル30's」にも見られるように現在も論じられ続けている。またこの世代向けに作られたと思われる企画もいくつか見かけるようになった。他方で、より下の世代に対しては、「ゆとり世代」や「新型うつ」などのキーワードでバッシングの対象になることが多く、従来「若者向け」と呼ばれる、例えば「週刊SPA!」や「週刊プレイボーイ」なども、「ゆとり世代」と呼ばれる世代を揶揄的に採り上げたり、あるいは明確にバッシングするような記事を載せるようになっている。

「若者向け」のメディアは、ロスジェネ、あるいは団塊ジュニア向けに特化した情報を載せるようになる一方で、さらに若い世代に向けたメディアはかなり乏しい。人口が少ないので読者層や商機として認識されないのはある意味必然だ、という見方もできるかもしれないが、より若い世代の抱える社会的問題が、ロスジェネという存在を前にして論じられにくくなる状況は、社会にとってポジティブなものであるとは言い難い。
本稿では、ロスジェネ世代向けに製作された記事を検証することにより、現状の「若者向け」言論メディアの状況を照射し、「ロスジェネ」という概念が何を残したのかについて述べていくこととしたい。

2. ロスジェネ・メディアとしての『AERA

雑誌『ロスジェネ』は、「超左翼マガジン」を自称し、「右翼と左翼は手を結べるか?」など、主に政治思想・社会思想分野に特化した誌面作りをしてきた。同誌は2008年に秋葉原駅前で起こった無差別殺傷事件を「テロ」と呼び、別冊を作るなどしている。

橋本努は、同誌と、そしてロスジェネ世代の論客による格差論について、ロスジェネ世代とさらに下の世代が製作し、オピニオン・政策提言的傾向が強い雑誌『POSSE』との比較で次のように述べている。

時代を映す鏡としては、『ロスジェネ』的な実存のセンスは、広範にみられた。当時は、若者たちの労働運動がにわかに台頭した時期であったが、その一方で、小林多喜二の『蟹工船』がにわかにブームとなっている。もはや事態は、文学的な表現によって絶望を昇華するしかないという感覚も、この時期に広がった。(橋本努[2012]。同様の記述は、橋本の『ロスト近代』にもあり)

橋本の指摘するとおり、ロスジェネ系統の言説においては、統計や綿密なルポルタージュに基づいた報告や政策提言よりも、同世代、そして上の世代や正社員層の「実存」に訴えかけたり、論者によっては攻撃したりというものが目立った。そしてそれは、ロスジェネと名付けられた世代の不安から来るものであったように見える。

さて、このような言説は、現在はどのようになっているのだろうか。私が着目したのは、『AERA』2012年9月3日号の記事「「希望は橋下」30代の渇望――なぜ僕たちは橋下徹にひかれるのか」(太田匡彦)である。「橋下」とは言うまでもなく現・大阪市長橋下徹のことである。この記事では、非正規雇用などで困窮した状況に置かれていたり、あるいは既存の政治に疑問を持ったりしているロスジェネ世代(なお、この記事では、ロスジェネ世代について、明確に1972~1982年生まれの世代だとしている。太田匡彦[2012]p.12・4段目)が橋下を支持する様を描いている。この記事においては、橋下がロスジェネ世代に支持される理由を《世代の記憶》(太田、前掲、p.15)に求めている。

この記事においては、ロスジェネ(30代)と40代・50代、そして60代に取ったとされるアンケートの結果も掲載されている。しかしこのアンケートは、例えばサンプル数は、30代、40・50代、60代について、それぞれ300人、100人、100人となっており、しかも30代については正社員100人、非正規雇用者100人、主婦・無職100人という、社会調査法の基礎すら知らないのではないかと疑ってしまうようなものであり、またカイ二乗検定など統計学的な処理をした形跡もなく、おおよそ多角的な視座に欠けているとしか言えない。しかもこの記事は、より若い世代を無視している。

しかし『AERA』がこのような記事を掲載するのは、今までの『AERA』がロスジェネ世代やその多くがロスジェネ世代にあたるとされる団塊ジュニア世代、そしてその直前直下の世代にとってきた態度を見れば、決して突飛なことではない。むしろ『AERA』の今までの態度は、ロスジェネ世代向けのメディア(以下、「ロスジェネ・メディア」と表すこととする)の態度に典型的とも言える。

AERA』については、今までも様々な視点から分析されることはあったが、それらの分析は総じて『AERA』を女性誌と見なした上でのものが主流であった。かつて中森明夫が同誌で描かれる女性の問題を「アエラ問題」と表現したことは有名であるが(中森明夫[1999])、『AERA』について、主にバブル世代の女性のライフスタイルを採り上げ、扇動するメディアと見なす向きは現在も多い。最近の例だと、桐山秀樹の『「アエラ族」の憂鬱――「バリキャリ」「女尊男卑」で女は幸せになったか』(PHP研究所、2009年9月)や、速水健朗の「放射能から閉経まで 女性誌アエラ」の研究」(『新潮45』2012年4月号)などが同様の視点で同誌を論じている。

ただし桐山の書籍は、記事と言うよりは、記事に扇動される女性への説教という色彩の強い書籍であり、若い女性への安直な決めつけが多く見られる。他方で速水の論考は、同誌2011年3月28号の「放射能がくる」と煽った表紙が登場したのは必然だったとし、放射能汚染という、東北地方太平洋沖地震以降の重要なテーマが、同誌の文脈に組み込まれることにより、不安を煽る一つのガジェットとして機能していく様を描いた、優良なメディア論となっている。

しかし速水の論考は、一つだけ重大な誤りを含んでいる。次のくだりである。

最近の誌面に出てくるカタカナ名前の女性に、30代が減り、40代が増えてきているのは、雑誌とともに読者も歳をとってきているからだ。いまの30代は“ロスジェネ世代”である。アエラのノリには一歩引いているはずだ。バブル崩壊後の就職氷河期に社会に出たこの層は、アエラ世代のように楽にはキャリアを積ませてもらえなかった世代である。むしろ、いまでも生活レベルを落とさずにやっていこうと考えているアエラ世代を“バブル世代”と、疎ましく思っている。アエラが、今のセンスでこの世代を汲み取っていくのは難しいだろう。(速水健朗[2012]p.89)

しかし、実のところは『AERA』は、団塊ジュニア世代、後にロスジェネ世代に焦点を当てた記事も、現在に至るまで掲載しており、先ほど採り上げた「「希望は橋下」30代の渇望」もその流れに属するものである。そしてここに至るまで、『AERA』の団塊ジュニア・ロスジェネ言説は様々な展開を見せてきた。

3. 「AERA団塊ジュニア世代記事の傾向

以前より『AERA』は、20代・30代の若年層の行動を揶揄的に採り上げることがあった。そしてその多くがいくつかの事例を並べ立てて、このような事例がある、ということを紹介し、それをさも若年層全体に広がっている感覚であるかのように論じ、囲み記事では有名人の談話を載せたりしている。また、既往の言説において指摘されている『AERA』の女性記事の特徴(「カタカナ名前」の使用など)は、若者記事・世代記事にも見ることができる。しかし、2001年頃までの記事は、例えば「感情喪失の20・30代――嫉妬も怨みも拗ねるもわからない」(藤生京子、1999年6月28日号)、「ストレス弱者 30代の叫び――価値観転換期に悩む「弱い世代」」(堀田浩一、2001年8月27日号)、「アリより貯める20代の貧乏感――年収600万円でも悩むバーチャル「金欠」」(向井香、2002年7月22日号)と、「20代」「30代」といった年齢層、もしくは「若者よ 孤独力をつけよう――「ひとりぼっち」に耐えられない」(大和久将志、2002年7月22日号)などのように、どの年代を指すのか不明瞭な「若者」という言葉が使われることが多かった。

そのような記事が転機を迎えるのが、「元気ないぞ!団塊Jr世代――オヤジほど自分を主張しきれない」(宇都宮健太朗、2002年10月7日号)である。私が観測した限りでは、この記事で初めて「団塊ジュニア」という呼称を用いた記事が登場する。そしてこの記事で既に、『AERA』の団塊ジュニア世代言説、そしてロスジェネ言説のフォーマットができあがっていると見ていい。

既存の女性言説もしくはそれと同様の手法が使われた若者言説と比較した、団塊ジュニア・ロスジェネ言説の特徴として次のようなものが挙げられる。第一に、時代背景を強調していること。例えば先の「元気ないぞ!~」にも、次のようなくだりが見られる。

筆者注:常に競争に晒され、右肩上がりの成長を支えたとされる団塊の世代と比較して)「団塊ジュニア」はどうか。数は多いが、団塊世代とは対照的に存在感は希薄。なんだか元気がなく、疲れていて、冷めている。

じつは記者もそのひとりで実感しているのだが、それには、

「競争につぐ競争だったのに一度もおいしい目にあったことがない」
という半生が影響している。(宇都宮健太朗[2002]p.41)

このような、団塊ジュニア世代(後のロスジェネ)は、競争に晒されながらも常に割を食らい続けてきた世代であるという「認識」が、現在に至るまで、『AERA』の団塊ジュニア言説・ロスジェネ言説を支えるイデオロギーになっている。

第二に、年表を使った記事が頻出すること。例えば「元気ないぞ!~」においては、1973年生まれのライフコースと、その年代に起こった流行や風俗、そして社会的事件などが掲載される。団塊ジュニア世代(及びロスジェネ)はこういう時代背景を育ってきたということを強調するための「年表」である。

その後しばらくは、『AERA』においては、それまで女性言説の手法を用いていた若者言説に(そして女性言説にも)、先ほど指摘したような団塊ジュニア言説の手法が導入されるようになる。もちろん、「20代おおう「心はニート」――自信過小、自分探し世代の憂鬱」(内山洋紀、2004年11月8日号)といった、既存の「女性言説のような若者言説」もあり、「スネかじリーマン――年収450万円でも仕送りもらう20代」(松田亜依、2003年9月15日号)や「20代の「ガチ」ナショナリズム――ポストバブル10年 若者は国に何を思う」(内山洋紀、福井洋平、2004年8月30日号)などの若者バッシング記事も掲載されてはいる(特に前者は、記事に登場する20代の男性を「くん」付けで記載するなど、さも小学生でも採り上げているような体たらくだ)。

しかし、例えば「「30歳で成人式」がいい――自信過小、自分探し世代が「オトナ」になるとき」(内山洋紀、2005年2月21日号)には、『AERA』ではおなじみの「カタカナ名前」の若年者も登場するが、pp.14-15には1975年生まれの人のライフコースが、「金儲け・効率」と「ゆとり・こころ」の間で揺れ動いてきたかのように描いている。また次のような「世代認識」も出てくる。

そんな話し合いの中から、伊藤(筆者注:ミュージシャンの伊藤忠之)さんらが感じている30歳像は、「(ベビーブーム前後で)幼少期から競争を強いられてきたけど、(終身雇用のような)従来の価値観が通用しなくなり、将来に不安を感じつつも、現状に甘んじて大人になりきれていない世代」だ。(内山洋紀[2005]p.13)

ここでも、やはり「競争を強いられてきたが、気付いたら終身雇用などが崩壊しており、割を食った(故に大人になれない)」という「認識」が登場している。

そして「ロスジェネ」という言葉が初めて登場するのは、2007年10月29日号の「ロスジェネって言うな――25~35歳覆う不遇感格差」(木村恵子、加藤美穂、2007年10月29日号)である。この記事では、25歳~35歳、生年で言うと1972年~1982年生まれの世代の「不遇感」について述べている(名前はおおよそカタカナである)。冒頭に出てくるのは、27歳の、慶應義塾大学卒業の外資コンサルティング会社勤務の男性を《絶対に仲間ではない》(木村恵子、加藤美穂[2007]p.16)と認識したPR会社勤務の32歳の女性であるが、他方で別の26歳の派遣事務の女性は、30代前半は「バブル臭」を持っており、「ロスジェネ仲間」と言われてもピンと来ないと言うなど、「世代内での世代間対立」を描いたものとなっている。そしてpp.18-19には、1972~1982年生まれの有名人と、それぞれの年代に生まれた人がどのようなライフコースを歩んできたかというのが描かれる。

しかし年表においても、例えば1972~1974年生まれに対しては「受験も就職も難世代」と書かれる一方で、「中高時代はバブル期。教育には金をかけられた世代」とも書き、その直上には1979~1982年生まれについて「バブルは小学生以前に過ぎ去った世代」と書くなど、それぞれの世代の「不遇の原因」が書かれている。年代で暴力的に輪切りにすることに抵抗感を感じている様子は一切なく、この世代が一様に「不遇」であると決めつける様にも問題があるだろう。

この記事の中には次のような文言が出てくる。

だが、ロスジェネだって一枚岩ではない。アエラネットではロスジェネ世代188人に聞いたところ、「10年ひとくくりには抵抗がある」という声が4割を占め、過半数の人が生まれた数年の違いで、全然違う時代を生きてきたと感じ、さらに「自分の年代こそが真の不遇世代」と訴えていた。(木村、加藤、前掲、p.19)

さらにこの記事では、25歳周辺(R25)・30歳周辺(R30)・35歳周辺(R35)代表の「識者」による談話記事が掲載されている(R25は村田早耶香、R30阿部真大、R35は柴崎友香)。特に阿部は、次のような世代観を臆面もなく表出させている。

僕たち「ナナロク」世代は、上世代とも下世代とも違う。上を見ると、なんであんなにプラズマテレビをほしがるの?妙にワインの銘柄に詳しいのはなぜ?と思うし、下を見ると、もっと稼ごうと思えよ、カップルでコンビニ弁当食べて満足するなよと思う。上のバブル的価値観と、下の自分探し的価値観に挟まれた中間的感覚を持ってるんでしょうね。(木村、加藤、前掲、p.19)

このような世代観は、上下の世代と自分たちを比較し、自分たちがもっとも「不遇」ないし「不幸」である、もう少し汎用的な表現で言えば「特別」であるというために作り出された「闘争のための世代論」である。みんながみんな阿部のような感覚や認識を持っているわけではないだろうに、それを一般化してしまうことは果たして社会学者として正しい行為と言えるのだろうか。

AERA』のロスジェネ言説の多くは、彼らの晒されている「格差」を、経済的なものと言うよりも感覚的なものとして捉え、そしてこの世代の「不遇感」を強調するような記事をいくつか出している。これは従前から『AERA』が行ってきた団塊ジュニア言説の流れを引き継いでおり、『AERA』は団塊ジュニア世代、そしてロスジェネに対して、不安を共有するような記事を作ることにより共感を引き出し、読者層に組み込もうとするという動機が働いているように見える。「ロスジェネ」を冠した記事で、まともに労働問題を取り扱った記事は、「ロスジェネ派遣の言い分――「船場吉兆」だけじゃない」(木村恵子、2008年2月11日号)くらいであろう。

そしてこのような記事は、直前直下の世代に対して、過剰な暴力性を発揮するのだが、これについては次節以降で述べることとする。

4. 持ち上げられるロスジェネ

AERA』のロスジェネ言説は、この世代の「不遇感」を強調する一方で、同時にこの世代の「可能性」を強調する言説もいくつか出している。このような記事は大別して2つに別れ、ひとつは様々な分野で活躍しているロスジェネを採り上げるもの、もうひとつは「不遇な境遇を生きてきた」ロスジェネ一般の可能性について論じるというもの。前者としては、2008年6月9日号の「ロスジェネ「一発転身」――氷河期世代の幸せ探し」(木村恵子、2008年6月9日号)と「もうロスジェネとは言わせない――失ったからこそ変えられる」(澤田晃宏、2009年10月19日号)、後者としては、2008年12月29日・2009年1月5日合併号の「ロスジェネがバブル超える日――現役世代それぞれの「10年後」」(太田匡彦、福山栄子、鈴木繁、2008年12月29日・2009年1月5日合併号)、「入社10年目の進化する誇り――就職氷河期世代が運命づけたそれぞれの道」(太田匡彦、2009年11月9日号)が挙げられる。

前者の記事は、基本的に様々な分野の先駆者を紹介しており、ロスジェネというのは単に紹介する人たちに共通する特徴くらいのものでしかない。ただしこのような記事にも、ロスジェネについて「割を食った世代ゆえに挑戦する気概がある」という認識が登場する(《でも、考え方一つで人生は変わる。むしろその不遇をバネに、一発転身を果たして夢を叶えようとする人たちがいる》木村恵子[2008]p.17など)ので注意が必要ではある。

問題は後者である。桐山秀樹は、後者に属する「ロスジェネがバブル超える日」について次のように述べている。

ところが、石原(筆者注:コラムニストの石原壮一郎。石原も2007年10月に『30女という病――アエラを読んでしまう私の悲劇』(講談社)という書籍を出している)氏が本を出した二年前から、『AERA』読者の中でも、急激に増殖してきた世代の女性たちがいる。

就職氷河期に大学を卒業し、学校を出てからは好況知らずという、ロストジェネレーション(ロスジェネ)世代の女性たちだ。

この世代の存在も『AERA』の女性記事は無視できなくなった。そこで、『AERA』は、ロスジェネ世代の若い読者も部数増に取り込みたいのか、「ロスジェネがバブルを超える日」(二〇〇八年十二月二十九日・二〇〇九年一月五日号)と、世代間の路線対立を煽ろうとしているように思われる。

「打たれ強くて、前向き」という、不況に強いこの世代の職場や社会への進出を前に、「まだまだ若いという病」に罹患したかつての「アエラ族」は、自身の年齢を実感させるものとして非常に怖れるのだ。(桐山秀樹[2009]pp.33-34)

しかし、「ロスジェネがバブル超える日」などの、ロスジェネの会社員一般について書かれた記事は、むしろロスジェネに有利なように書かれている。桐山の認識に従えばこのような記事がバブル世代を叩くのも、バブル世代に多くいると見なされる「アエラ族」に危機感を持たせるためということになるかもしれないが、むしろこの種の記事は、『AERA』が続けてきた(そして桐山が見落としていた)団塊ジュニア・ロスジェネ言説の流れで考えるとわかりやすい。

例えば「ロスジェネがバブル超える日」においては、30代は見出しで《学校出てから好況知らず 打たれ強くて前向き》(太田匡彦、福山栄子、鈴木繁[2008]p.14)とされており、この記事では30代で活躍する人が「実名で」採り上げられている。一方40代に対しては、《根拠なき自信と突進力 ただし「ブランドに弱い」》(太田ほか、前掲、p.17)とされ、40代の悩める人たちが「カタカナ名前で」採り上げられているのだ。

AERA』においてカタカナ名前が用いられるのは、特定の社会集団を揶揄的に採り上げる場合であり、「実名で」採り上げられた30代と、「カタカナ名前で」採り上げられた40代を比較したときに、後者は記事の態度から、最初から貶めることを目的に書かれていると判断できる。つまり、「優れている30代」と「劣っている40代」を比較して、40代のほうが劣っているとしているのだ。要するに「劣っているほうが劣っている」というトートロジーでしかない。

この記事では50代も採り上げられている。しかしこちらも、見出しが《ロスジェネに軍配の部長 自らは転勤を思案中》となっている通り、30代を引き立てる存在でしかない。ここに登場する50代は、「カタカナ名前」ではあるが、40代のように揶揄的に採り上げられているわけではない。そしてこの部分でも、40代はバッシングの対象となる。例えば矢幡洋のコメントとして次のように書いている。

一方、年下にあたる40代後半の「新人類」世代は中年以後、存在感が薄くなった。

「その下の40代前半、バブル入社世代が強烈すぎるんです」

と矢幡さんはみている。

「この世代はすべてを娯楽として消費の対象にしてきた。企業ですら自己実現のためにあると本気で思っている人が多い」(太田ほか、前掲、p.18)

新人類世代が中年以降に存在感を失ったのは、40代前半のバブル入社世代が原因であるとしている。この部分では他にも三浦展が、40代を指して《まだバブルが続いている》(太田ほか、前掲、p.19)と述べており、50代を採り上げるはずの部分で、40代を叩き続けている。一方ロスジェネに対しては、このような評価をさせている。

翻って、ロスジェネ世代の正社員組はどうか。バブル入社組に厳しいヤスヒロ部長も、ロスジェネには一目置いている。

「裸一貫、自分の力で勝負するというヤツが多いね。特に女性は恐ろしく優秀な子が入社している。英語はペラペラ。試験は高得点。応対はそつがない。聞いてみると、給与が高く男女格差の少ない保険会社を希望していたのに、保険業界が採用を手控えたのでやむなくウチにということだったらしい」

可愛がっていた部下の一人は、通関士になって退社したが、

「彼女にとってはそのほうがよかったんじゃないかな。古い体質の会社だから」
同じ退社組なのに、バブル組とは評価にえらい格差がある。

「不況を体験しているから、地に足がついている」(太田ほか、前掲、p.19)

このように、50代にも30代を高く評価させているのである。この部分はもはや50代について述べた部分ではなく、50代をダシにして40代を叩き、30代を持ち上げる部分と化しているのだ。従ってこの記事全体の主要な読者層は、30代と考えるのが適切だろう。そして40代を仮想敵としているのである。

「入社10年目の進化する誇り」にしても、前線で活躍する30代の人たちを、やはり「実名で」紹介し、横には囲み記事として、渡邉美樹、海老原嗣生和田秀樹にこの世代の「強さ」を解説させている。特に渡邉は、この記事で採り上げられている、自分が会長を務めるワタミ最高財務責任者CFO)である32歳の木村敏晴を引き合いに出して、次のように述べている。

木村たちの世代が大学を卒業する時は非常な就職氷河期だった。一方で投資ファンド外資系金融機関に入った同期や友人のなかには、大変な金を稼ぐようなのも出てきた。ところが昨年、リーマン・ショックが起きた。就職時に突き詰めて将来を考えさせられ、さらに経済の大きなパラダイムチェンジを10年目前後で味わったわけです。そのためかこの世代は、お金では買えない価値を見いだそうという意識を非常に強く持っている。だからいい人材がそろっているのだと思います。その意味で、この上下の世代に採りたいと思う人材はいません。(太田匡彦[2009]p.49)

《この上下の世代に採りたいと思う人材はいません》とはずいぶんな物言いである。渡邉は就職氷河期世代を、やはり統計的な根拠のない単純な世代論で持ち上げ、この世代の「可能性」を語ると同時に、その上下の世代を攻撃している。

AERA』のロスジェネ言説は、30代を持ち上げることにおいて、その直前直下の世代を攻撃することをいとわない。自分たちの世代を特別視することにより、30代を中心とするロスジェネに「癒やし」もしくは「自信」を提供するという行為を行ってきた。
ここまで、『AERA』に「団塊ジュニア」という言葉が登場してから、「ロスジェネ」という言葉が出てくるまでの期間、すなわち2002~2007年頃においては、団塊ジュニアないしロスジェネ言説は、彼らの「不安」ないし「不遇感」を強調する記事を書いてきたことを指摘した。そして本節で採り上げた、ロスジェネの「可能性」を強調する言説は、2008年半ば~2009年頃に見られるものである。団塊ジュニアないしロスジェネに対する記事は、2007年から2009年にかけて「不安」「不遇感」から「希望」「可能性」を示すような記事になったが、そこにおいては、特に40代へのバッシングを伴っていた。

ロスジェネ・メディアにおいては、バブル世代はある種の「逃げ切り」世代として、揶揄やバッシングの対象になることが多い。

5. 敵としてのゆとり世代

それでは、2008年前半~半ば頃においてはどのような傾向があったのだろうか?それは、ロスジェネ・メディアが揶揄やバッシングの対象とするもう一つの世代、すなわち直下の「ゆとり世代」へのネガティブ・キャンペーンを行っていたのだ。
ロスジェネ・メディアが「バブル世代」と「ゆとり世代」を仮想敵として揶揄的に採り上げたり、あるいはバッシングしたりという傾向は、広汎に見られるものである。例えば「ダイヤモンドオンライン」に連載されていた、自らを「氷河期くん」と規定する、梅田カズヒコの連載「バブルさんとゆとりちゃん」があるが、これもロスジェネの上下の世代を、自らのインタビューを絶対視し、それを科学的に体系化することなく「特徴」を決めつけているという問題の大きい連載である。

閑話休題、『AERA』において、ロスジェネ(1972~1982年生まれ)のさらに下の世代が「若者」として採り上げられることは、『AERA』がロスジェネ・メディアとしての性質をあらわにする前からあった。例えば「かしずく女の時代――女を「装う」女の焦り」(木村恵子、高崎真規子、2004年10月4日号。ちなみにこの記事も「年表つき」である)では、10代・20代の女性の結婚願望について、《お受験からお稽古、ファッションと小さいころから人の目を意識するように教育されている》(木村恵子、高崎真規子[2004]p.21)とし、それに一定の理解を示しつつも、《演出の腕は上がった。でもそれが本当の充実感につながるのだろうか》(木村、高崎、前掲、p.21)と憂慮してみせている。

本格的に「ゆとり世代」をバッシングするのが、「トンデモ内定社員――「ゆとり」チルドレンの就活」(坂井浩和、2007年4月16日号。この記事も「年表つき」)である。「ゆとり世代」の新入社員をバッシングするような記事が出てくるようになるのは2008年頃であり(後藤和智[2011])、この記事はその傾向を若干先取りしている感があるが、この記事は、なんと入社する前から、これから入ってくるであろう若年者に対し「トンデモ」と断じている恐るべき記事だ。しかも「トンデモ」と目された世代の人間への取材は一切ない。年表にも、「ゆとり教育」により《円周率が3となる》(坂井浩和[2007]p.16)などと事実に反することが書かれている。ただし、「デジタルプアの見えない壁――携帯オンリーが陥る下流スパイラル」(有吉由香、2007年5月28日号)のように、論じられている世代の人間に対する取材が行われていたり、また安直な決めつけを避けてデータを使っている記事もある。

それでは、ロスジェネ・メディアと化した後の『AERA』における「ゆとり世代」、というよりはロスジェネ直下の世代の扱い方はどうだろうか。「あと1年の不遇感――ロスジェネとポスト・ロスジェネ」(木村恵子、福井洋平、2008年1月21日号)は、2005年に就職できなかった世代があと1年遅く生まれていたら、《10万1900人》(木村恵子、福井洋平[2008]p.14)もの求人が増えていたと書き出す。そしてそこでは、特に20代後半の人たち(カタカナ名前)が、自分たちの世代は就職にありつけず、ありつけたとしても非正規だったり、もしくは正社員でも過酷な労働環境が待ち構えているのに、下の世代は就職も楽そうで、そのくせ能力が低いと嘆かれている。この記事においては、一応「ポスロス」と略されている世代の人間も取材されているが(24歳)、本当に下の世代の就職活動が楽勝だったのかについては統計的に立証していない。ロスジェネが「ポスロス」に恨み節をぶつけるようなものになっている。

そしてこの記事のpp.18-19では「ポスロス」の欠点について述べられる。その直前の文章を引用しよう。

ロスジェネとポスト・ロスジェネ。本当に「ロスト」しているのはどちらなのか。答えは簡単ではないが、一見得をしているポスロスの落とし穴を次ページに掲載した。(木村、福井、前掲、p.17)

その《落とし穴》とはそれは安定志向なのだという。『AERA』が後のロスジェネの先駆者を採り上げる記事などで、「不遇を受けてきたから強い」というイデオロギーを煽っていることを考えると、『AERA』が「ポスロス」とやらの安定志向を嘆くのも無理からぬことと言うことができる。

ところでこの記事においては、後藤和智が次のように述べている。

「正社員になりづらかったという環境もなりやすいという環境も、自分たちのせいでできたものではなく上の世代から与えられたもの。全員が生活を不安定にさせられている世代なのに、内ゲバしてどうするんですか」(木村、福井、前掲、p.19)

しかし、ロスジェネ・メディアにとって、自分の直下の世代を叩くことは、たとい同じ20代であっても、《内ゲバ》などではない。自分より能力が低いにも関わらず楽に就職できたとされる直下の世代は明確な「敵」なのだ。

それを象徴するかのような記事が、そのおよそ4ヶ月後に掲載される。「「ゆとり社員」で職場崩壊――新入社員教育を見直す企業」(太田匡彦、野村美絵、2008年5月19日号)と「大人免疫力が低すぎる――「売り手市場」のゆとり世代という新人種」(大波綾、2008年6月23日号)だ。前者については、人材育成担当者などの「意見」に占められており、採り上げられている当事者である新入社員(世代)への聞き取りは一切ない。また、次のように、就職氷河期世代と比べて昨今の新入社員が劣っているという記述も出てくる。ちなみに《バブル入社組》とは、昨今の新入社員のことを指す(!)。

就職氷河期に入社してきた、いわゆるロストジェネレーション。この世代は門戸を閉ざした企業の門前で正座をさせられ、働くとは何か、どんな働き于になりたいのか必死に自問自答をしてきた。人社後、自我の強さは気になるが、目的意識の高い即戦力になった。

一方のバブル入社組、全開の門戸に向かって歩いているうちに、街頭で配られるティッシュのように内定をもらってきた。「入ってやった」という感覚。「残業はどのくらいあるか」「有給はちゃんと取れるのか」が大きな関心事。

「私に何をしてくれるの?」というスタンスで研修にやってくる。(太田匡彦、野村美絵[2008]pp.16-17)

もちろん、このくだりにあるような、《全開の門戸》とか《街頭で配られるティッシュのように内定をもらってきた》ということがデータを使って示されているわけではなく、単なるイメージでしかない。しかもさりげなくロスジェネを《目的意識の高い即戦力》と書いているあたり、『AERA』の「裏の想定読者層」であるロスジェネを意識したものとなっている。

先に採り上げた一連の記事では、『シュガー社員が会社を溶かす』著者として有名な田北百樹子の談話記事があるほか(田北の問題点については、後藤和智[2012]を参照されたし)、「「ゆとり社員」で職場崩壊」では「プロレス研修」と称されている研修が紹介されている。「大人免疫力が低すぎる」では前川孝雄が《大人免疫力をつける六つの心得》(大波綾[2008]p.30)として《ネット、メールよりリアルコミュニケーション重視》や《上司からの誘いには「よろこんで!」》などが挙げられているほか、囲み記事では三田紀房が《大人に慣れるには「若者や、まずはビールを飲め」》(大波、前掲、p.31)と述べている通り、「旧世代」的な価値観が召還される。

この通り、2008年前半の『AERA』を見ると、ロスジェネを採り上げる記事はいったん身を潜め、その直下の世代をバッシングするような記事が出てくるようになる。このような記事は、少なくとも『AERA』においては、ロスジェネが新入社員の頃にはなかったものである。もちろん、「ゆとり教育」という、若年層を叩くために都合のいいバズワードが普及したことも原因として挙げることができるだろうが、一連のバッシングの中にはロスジェネ世代による語りもあり、少なくともロスジェネ・メディアとしての『AERA』にとってはロスジェネ直下の世代が「敵」と見なされている可能性があることが窺える。

ちなみにリーマン・ショック後には「第2ロスジェネが大発生する――就職氷河期がまたやってくる」(大波綾、2008年11月10日号)という記事が掲載される。しかしこの記事も、大筋では就職活動世代の「大手志向」を批判するものである。従前の記事に見られた極端なバッシングになっているわけではないのが救いか。

6. まとめ――希望は蓮舫か、橋下か

ここまで、『AERA』をロスジェネ・メディアと再定義し、『AERA』に「団塊ジュニア」という枠組みが採用された2002年から、それが「ロスジェネ」に変容したあとの2009年頃までの記事を見てきた。2007年頃までの『AERA』の団塊ジュニアないしロスジェネに関する言説は、この世代の「自信喪失」「不遇感」を採り上げ、特に「ロスジェネ」論の初期においてはどの世代が「不幸」であるかを競うような記事を作った。その後は2008年初め頃は直下の世代、そして2008年半ば頃から2009年にかけては直前の世代を叩くことにより、自らの世代の優位性を誇示しようとした。

「不幸自慢」による不安感の共有から、直前直下の世代へのバッシングに至るという道は、ロスジェネ・メディアとしての『AERA』の暴力性と弱みを示しているように思える。それは自らの「不遇」を嘆く一方で、「逆境の中を生きてきたから強い」と直前直後の世代に対して自らの世代の特別性を示そうとする。それは特定世代(ロスジェネ!)への「癒やし」になったとしても、普遍的な視座や政策を生み出すものではない。

ここから「ロスジェネ」論以降の「若者向け」報道・言説のあり方について考えてみよう。本稿の冒頭でも述べたとおり、「ロスジェネ」論が生まれて以降は、この世代が「若者」として採り上げられることはあっても、その直下の世代は「ゆとり世代」などの言葉で叩かれることが多い。そしてそれには多くのロスジェネ・メディアが荷担している(雑誌『ロスジェネ』は荷担していないが)。冒頭で引いた今野晴貴の嘆きに見られるとおり、メディアで採り上げられる「若者」ないし「若手論客」とはもっぱらロスジェネであり、現実の若い世代はないがしろにされている。

これは少なからぬロスジェネ・メディア、ないしロスジェネ論客が、「絶望」「不幸」を楯にとって上の世代のメディアや論客に、「若者」としての「異議申し立て」を行った一方で、橋本努の指摘するとおり、ほとんどの言説が実存をめぐる表出や闘争に終始したことと無関係ではないだろう。この世代のメディアや論客による「異議申し立て」は、かえってメディアを通じてより下の世代の意見を吸い上げることを困難にしてしまったという感がある。

このことは、「異議申し立て」という行為が、その当事者世代にとってはそれなりに効果がある――失業率の改善などの統計上の効果がなくとも、その世代を継続的に採り上げるメディアが現れる――が、自らのメディアを持たない世代、つまり下の世代の「異議申し立て」を困難にすると言い換えることができる。このような不幸なスパイラルを生み出さないためには、「異議申し立て」そのものに価値を認めるような議論ではなく、それを体系化し、実際の政策につなげるような議論をすることだ。世代論というものはそのためのもっとも大きな障害のひとつである。『AERA』の「年表つき」記事のように、戯画化されたライフコースを絶対視するのではなく、真に有効な手立てを模索する必要がある。

さて、2010年以降の、ロスジェネ・メディアとしての『AERA』はどのような傾向を示しているだろうか。具体的に言うと、それまでよりもより大文字の「幸福」や「救済」を、政治などと絡めて論じるようになっている。第2節で採り上げた「「希望は橋下」30代の渇望」もそうだが、それ以外にも「そして蓮舫だけが勝った――「変えてほしい」切望が再び」(木村恵子、小林明子、福井洋平、2010年7月19日号)や、「若者にデフォルト待望論――資産も職もない絶望感」(山田厚史、2012年1月16日号)が挙げられる。

前者では、蓮舫を「変えてくれる」という理由で支持する20代後半~30代の人たちを取材したものである。この記事では、都内の20~40代の618人に対してアンケートをとり、どのような人が村田を支持しているかということを「分析」しているが、統計学的な処理が行われた形跡はない。

後者は、若い世代にインフレによるデフォルトを求める心性が広がっている――もちろん、統計的根拠はない――とした上で、若い世代に広がる「リセット願望」を読み解くというものとなっている。この記事は、そもそもインフレについて、数パーセント程度のマイルドなものと、所謂ハイパーインフレを峻別して論じられているものではなく、「リセット願望」が広がっているという問題設定を検証せず、裏付けが少なくとも若い世代に関しては1人(しかも伝聞)だけで、その後は「識者」のコメントを並べ立てるというものであり、何を主張したいのか不明瞭なものである。

「強い蓮舫」「強い橋下」「リセット」などを一足飛びに求めるようなこれらの記事が、他のメディアや実際の政策に与える影響は少ないと見ていいだろう。結局これらの記事は「雰囲気」だけを報じている、ロスジェネ・メディアとしての『AERA』による極めて弱い「異議申し立て」でしかない。

他方、「幸せと不幸の境目はどこに?――20、30代300人調査」(木村恵子、澤田晃宏、2010年10月4日号)は、アンケート調査によって若い世代の「不幸」を検証するものであるが、そもそも調査自体が稚拙な分析に終始しているため、深みのある記事とは言えない。

不幸自慢、バッシングを経て、現在のロスジェネ・メディアとしての『AERA』は迷走の段階にあると思える。願わくば、『AERA』が、ロスジェネ・メディアとしての自らの言説の不毛さを見直してほしいものである。


文献・資料(『AERA』は掲載号順、それ以外は著者順)

宇都宮健太朗[2002]「元気ないぞ!団塊Jr世代――オヤジほど自分を主張しきれない」、『AERA』2002年10月7日号、pp.40-43、朝日新聞社、2002年10月
木村恵子、高崎真規子[2004]「かしずく女の時代――女を「装う」女の焦り」、『AERA』木村恵子、高崎真規子、2004年10月4日号、pp.16-21、朝日新聞社、2004年10月
内山洋紀[2005]「「30歳で成人式」がいい――自信過小、自分探し世代が「オトナ」になるとき」、『AERA』2005年2月21日号、pp.12-15、朝日新聞社、2005年2月
坂井浩和[2007]「トンデモ内定社員――「ゆとり」チルドレンの就活」、『AERA』2007年4月16日号、pp.14-17、朝日新聞社、2007年4月
木村恵子、加藤美穂[2007]「ロスジェネって言うな――25~35歳覆う不遇感格差」、『AERA』2007年10月29日号、pp.16-21、朝日新聞社、2007年10月
木村恵子、福井洋平[2008]「あと1年の不遇感――ロスジェネとポスト・ロスジェネ」、『AERA』2008年1月21日号、pp.14-19、朝日新聞社、2008年1月
太田匡彦、野村美絵[2008]「「ゆとり社員」で職場崩壊――新入社員教育を見直す企業」、『AERA』2008年5月19日号、pp.14-19、朝日新聞出版、2008年5月
大波綾[2008]「大人免疫力が低すぎる――「売り手市場」のゆとり世代という新人種」、『AERA』2008年6月23日号、pp.28-31、朝日新聞出版、2008年6月
太田匡彦、福山栄子、鈴木繁[2008]「ロスジェネがバブル超える日――現役世代それぞれの「10年後」」、『AERA』2008年12月29日・2009年1月5日合併号、pp.14-19、朝日新聞出版、2008年12月
太田匡彦[2009]「入社10年目の進化する誇り――就職氷河期世代が運命づけたそれぞれの道」、『AERA』2009年11月9日号、pp.48-52、朝日新聞出版、2009年11月
太田匡彦[2012]「「希望は橋下」30代の渇望――なぜ僕たちは橋下徹にひかれるのか」、『AERA』2012年9月3日号、pp.12-17、朝日新聞出版、2012年9月

橋本努[2012]「格差社会論とは何であったのか」、『α-Synodos』(メールマガジン)第104号、2012年7月
速水健朗[2012]「放射能から閉経まで 女性誌アエラ」の研究」、『新潮45』2012年4月号、pp.86-92、新潮社、2012年4月
桐山秀樹[2009]『「アエラ族」の憂鬱――「バリキャリ」「女尊男卑」で女は幸せになったか』PHP研究所、2009年9月
中森明夫[1999]「アエラ問題研究会(月刊ナカモリ効果・第35回)」、『噂の眞相』1999年10月号、噂の眞相、1999年10月

後藤和智[2011]「「ゆとり教育世代」の恐怖?――ステレオタイプはいかに消費されるか(検証・格差論 第6回)」、『POSSE』第13号、pp.207-214、POSSE、2011年12月
後藤和智[2012]「就職氷河期の新入社員言説の研究――「シュガー社員」論を中心に(検証・格差論 第7回)」、『POSSE』第14号、pp.157-166、POSSE、2012年2月