後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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「おたく族の末裔」としての表現規制反対派ムラ――墨東公安委員会「チンドン屋たちの暴走」を批判する(2022.07.09)

. はじめに

 「墨東公安委員会」氏が7月5日に投稿した記事「チンドン屋たちの暴走 SNS時代の「オタク」と表現の自由赤松健氏の出馬について」なる記事が注目を集めています。

 

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 しかしこの記事において、《「オタク」の意味が拡散し、その一角をなしている「表現の自由戦士」たちが、元来のオタクから変質してしまった存在である》や《SNSの普及が、コンテンツとの向き合い方を決定的に変えてしまったのではないかと考えられます》などという分析だったり、自分の世代語りだったり、あるいは《「オタク」で「表現の自由」をネットで叫ぶことにかまけている諸君にこう呼びかけます。スマホを捨てろ、現実に戻る――んじゃなくて、アニメのDVDを1クールぶっ通しで見るとか、徹夜でゲーム(ソシャゲ以外)をするとか、コンテンツに耽溺しようと。ネットの「仲間」よりコンテンツを愛せと》などという「提言」だったりと、俗流若者論的としか言い様がない認識が並ぶことに、正直辟易しています。

 というのも、こういった、それこそ俗流若者論的な「”オタクらしいオタク”が減ったから問題が起こっているのだ」という議論は、恐らく墨東氏も属するであろう左派”オタク”をはじめ、”オタク”全般には受けがいいですが、結局のところ世代論を超えるものではなく、より若い世代や自分の”オタク”としての”青春”時代よりも後に生まれた文化に責を押しつけがちになるからです。

 実際、墨東氏の《徹夜でゲーム(ソシャゲ以外)をする》という記述には、ソーシャルゲームに耽溺することは、少なくとも墨東氏にとっては”オタク”的行為ではないのか、だったら「艦隊これくしょん」や「ステーションメモリーズ!(駅メモ)」で同人誌を作っていて、後者にはとてつもなくはまっている私はどうなるのか、という文句の一つも言いたくなります。

 まあそういった私の感情の問題は措くとして、私が「表現規制反対派ムラ」と呼ぶ存在、ツイッターの左派”オタク”や彼らに批判的な人たちからはもっぱら「表自(界隈)」などと呼ばれる存在が、果たして「コンテンツへの耽溺の仕方を忘れたオタク」なのかということに、私ははっきりと異議を唱えたいと思います。

2. 中島梓『コミュニケーション不全症候群』から

 このことを考える上で参考になるのが、批評家の中島梓(作家の栗本薫でもある)が1991年に発表した『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房/ちくま文庫、1995年)における次の記述です(なお、引用に際しては、ある種の性格や社会的性向を病気になぞらえる表現がありますが、書籍が書かれた時代背景を鑑み、そのまま引用します)。

 そして、ことに若い層に多く典型的にあらわれるこの種の障害(筆者注:中島が「コミュニケーション不全症候群」と呼ぶもの)としておタク族があげられる。それはたいへんかんたんに要約するならば、競争社会に不適格で現実のなかに「自分の居場所を持てない」ために脱落せざるを得ない個体が、現実でなく非現実のなかに自分の居場所を見出そうとして虚構世界への逃避に走っている存在であり、その分裂症の境界例ともいうべき人種にとっては虚構のほうが現実よりもはるかに重大なものとして認知されていること。そして世界をそのように認知するがゆえに、彼らは他者を人間として認知する能力に欠陥があり、(略)自己の内的宇宙に侵入した他者を外敵として拒否すること。(略)(中島梓『コミュニケーション不全症候群』ちくま文庫、1995年、p.265)

 おタクたちはその社会の規範をまったくないことにして彼ら独自の規範をつくりあげることを選んでしまったのであるから、そこには同類と非・同類よりほかの分類はない。また、その同類という範疇は大変せまいから、「普通人」がゆきずりのだれかと喧嘩して相手に大怪我をさせてしまった、という以上に、おタクが当然知っているはずの声優の名前を知らなかったりすることは、おタクにとってのパニックになり、顰蹙になり、罪悪になるであろう。それは彼らの「仲良きことは美しきかな」を一瞬にして打砕くのである。それは共同幻想の破壊であるのだから、私達がその感覚を理解できないからといって、おタクたちを批判することはできない。彼らは要するに2分法によってしか世界を感じることができないのだ。そのAとBのあいだには、どんな緩衝地帯も存在しないのである。

 端的にいえば、おタクたちは、アニメであればアニメのもっとも微細な出来不出来とか、この背景処理の見事さにだけ感応するが、目の前で繰り広げられる現実の人間ドラマや現実の夕日の美しさには感応しなくなってしまった少年である。もちろんこれは極端であって、すべてのおタクがそうだというようなことをいうつもりはないし、またおタクということばで象徴されるかなり特殊な感性だけがこういう構造を持っているわけでもないが、しかしおタクの精神構造は基本的にこう定義できる方向をもっているのもたしかである。(中島前掲pp.85-86)

 いささか”オタク”に批判的にすぎる文章だと思いますし、また当時流行していた精神分析的批評の影響も強く見られますが(ついでに言うと同書のフェミニズム観も極めて一面的で偏見にまみれていることは指摘しておきますが、それは本稿とはあまり関係ないので省略します)、それでもこれらを含む中島の指摘は、むしろ表現規制反対派ムラの現在を予見しているようにも思えます。

 そもそも「おたく族」というのは、ある種の趣味嗜好の男性が相手のことを「お宅」と呼ぶことからつけられたものなのですが、中島はこの「お宅」という二人称にこそ本質があると述べています。それは第一に《相手の名前を呼ぶことを拒否》すること、第二に《自分の陣地を守るんだぞ、という態度を明らかにした》つまり「自分の家から相手の家に呼びかける」こと(中島前掲pp.49-50)。

 中島は「おタク」について、《自分の疑似現実のなかにとじこもって現実の競争社会を拒否してしまい、そのかわりのさまざまなおもちゃを現実におきかえ、子供だけの社会を作り上げて生きることを選んだ》(中島前掲p.81)とし、社会の変化に対する過剰適応だとしています。過剰適応というのは、表現規制反対派ムラの行動に対しても、フェミニズムやLGBTQ+を攻撃することで自分の「男性性」を過剰に誇示するということが、男性社会への過剰適応であるということがたびたび指摘されます。

 中島の指摘から見えてくるのは、”オタク”というのはコンテンツではなくむしろコミュニケーションに規定される存在であるということではないでしょうか。だから表現規制反対派ムラの暴走を「コンテンツへの耽溺の仕方を忘れた」と批判したところで、それはただの「オタクらしいオタクが減った」という世代論にしかならないのではないでしょうか。

 「オタク」というのは、「おたく族」(中島の言うところの「おタク」)という言葉につきまとう暗いイメージに対して「求道者」的な明るいイメージをつけることで払拭しようとする、いわば社会運動的なものであり、「おたく族」という言葉は廃れ「求道者」「趣味者」としての「オタク」という言葉は生き残りました。しかしそれとともに、「おたく族」的な心性と向き合わないまま(すなわち、他者と向き合わないまま)エリート層や論客層が40年近く過ごしてきたことが、問題を引き起こしているのではないでしょうか。これは「いまこそコンテンツに回帰せよ」という左派”オタク”に見られがちな提言も同様です。

2.「批評」と世代論

 墨東氏は《コンテンツは、鑑賞や批評の対象というよりも、「みんなで盛り上がる」手段と化してしまったのではないでしょうか。すると小難しい批評は嫌われ、定型フレーズをネットの「みんな」で叫ぶことで一時の快を貪る、そういう人が増えたのです》と述べますが、”オタク”界隈の「批評」なるものを、商業誌や商業媒体、ならびに同人誌で批判的に取り扱ってきた私としては、果たしてそんな「批評」が社会に何をもたらしましたか、結局は内輪だけで言葉を消費しただけではないのですか、と言いたいです。内輪だけで消費される「批評」に価値があるなど、笑止千万としか言い様がありません。

 それに、その「批評」の担い手、例えば東浩紀宇野常寛斎藤環福嶋亮大などといった書き手は、一部はテレビコメンテーターに成り上がった人物もいますが、その多くが、政権批判批判、差別批判批判に腐心していたり(白票投票をよびかけた東などはその典型です)、女性差別的な言動をツイッターなどで批判される人物も多く、マシなほうでも中立仕草ばかり、というのが現状です(他方で主として女性によるジェンダー系の批評は彼らの流れとはほぼ無関係に発展を遂げてきました)。

 内輪で消費される「批評」が外に対して影響力を持つとき、それは大抵世代論(若者論)という形を取ります。東浩紀の『動物化するポストモダン』や香山リカの『ぷちナショナリズム症候群』、荷宮和子の『バリバリのハト派』などはその典型でしょう。それは社会不安の責任を「若者」になすりつけるような時代の要請に即したものであり、若者論として受け入れられることによって過大評価されてきたように思えます。

 また、一部の層からは不倶戴天の敵のごとく扱われる、「草食系男子」という言葉の生みの親である深澤真紀も、「草食系男子」につながる一連の連載の中で「チェック男子」という言葉を作り上げたときは「今の若いオタクはオタクではなく「チェック男子」だ」という言説が流行りました。岡田斗司夫も『オタクはすでに死んでいる』という、若い世代を問題視する本を出していました。一迅社の『Febri』に掲載及び連載されていた飯田一史の「あたらしいオタクの肖像」「「オタク」は死語になっていた」もまあ世代論です。みんな世代論がお好きですね。

 また、本田透電波男』は、努力して女性に好かれようとした『電車男』的なものを強く否定し、自分たちは二次元に逃げ込んで真の愛を手に入れる(手に入れた)んだ、「あいつら」は所詮は資本主義に犯された偽物だ、ということを述べました。この本が「オタク」界隈における反フェミニズムに与えた影響は大きいのではないでしょうか。

 それ以外にも、速水健朗ケータイ小説的。』を起点とする「ヤンキー」論が、2012年の衆議院議員総選挙における斎藤環の「日本人=ヤンキー」説が注目を浴びました。

 これらの議論を総合して言えるのは、”オタク”における批評というものは、内輪で消費されるものと、ここまで挙げた社会評論のように「彼ら」と「我々(オタク)」に対して過剰に線引きして後者を排撃するものであり、また「彼ら」には若い世代や女性といった権力勾配の下にある存在、そして「一般人」というふわっとした存在が対象になってきました。左派”オタク”において「普通の日本人」や若い世代をけなして絶望してみせる人が多いのも、こういった志向性と合致しています。

 

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 私が接してきた左派”オタク”の多くは認めようとしませんが(それ故平然と若い世代を憎悪するが本人はそれも認めようとしない)、長幼の序という言葉があるとおり、年齢というのは性別と並んで最も身近な権力勾配です。「若者」より年齢が高い年長者、男性、シスジェンダーヘテロセクシュアルといった自らの立ち位置を自覚しようとするのではなく、むしろ積極的に行使するというのは、表現規制反対派ムラだけでなく左派”オタク”にもよく見られます(一番多いのはトランスジェンダー差別。次いで若者差別)。

3. 嘲笑とからかいの政治学

 また、”オタク”的評論、批評には、いわゆる「トンデモ本」や「クソゲー」などをレビュー、紹介し、酷評するものがあり、現在もYouTubeニコニコ動画を中心によく見られます(私もかつてよく見ていましたが、最近は普通のゆっくり実況やRTA in Japanの動画ばかり見ています)。

 そのような評論・批評が依って立つ認識として、特に陰謀論などの「荒唐無稽」な本に対して、「これらの本の蔓延を防ぐことはできない、だから笑い飛ばそう」というものがあります。実はこの「笑い飛ばす」という行為が非常に厄介で、社会的多数派は「笑い飛ばす」ことで女性解放運動をはじめとする種々の社会運動を無効化しようとしてきました。江原由美子の言うところの「からかいの政治学」です(詳しくは江原『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫、2021年)。

 ”オタク”界隈におけるフェミニズムや反差別への攻撃は、遊び感覚で行われていることは彼らの言動を見た人間からすればよくわかるかと思います。ネットミームや使い回された画像リプライを多用し、「発狂」とかいう表現を使い、そしてwhataboutismに基づく「混ぜ返し」を繰り返す。コンテンツやキャラクターはそれらのための道具に過ぎません。静岡県熱海市のとある居酒屋が受けているネットハラスメントはまさにその典型例です。

 中島梓の『コミュニケーション不全症候群』には、「おタク」が”子供”であるためには《「おタク的寄生のもとになるべき栄養」――つまりパロディのもとになる「原典」をたえまなく供給してくれる、大人、あるいは大人社会に組込まれた新しい才能が彼らの幸福な疑似社会の外側に広がっていなくてはならないのだから、しょせん彼らがえらんだ道は逃避であり、責任拒否であるにすぎないといわれてもしかたがないのである》(中島前掲p.82)と書かれています。そして表現規制反対派ムラの行動は、フェミニストや立憲野党、反差別活動(家)、そしてそれに「荷担している」と決めつけられた存在そのもの、つまり現実の存在そのものをコンテンツにして遊んでいるものに他なりません。

 そんな状況下において、「コンテンツに回帰せよ」と言うことに、どれほどの意味があるのでしょうか。彼らにとっては現実こそがおもちゃ、コンテンツなのですから。

4. 本丸はコンテンツではなくコミュニケーションだ

 表現規制反対派ムラをめぐる問題の本丸は、コンテンツではなくコミュニケーションにあることは明白です。それを解体するためにはジェンダー論(とりわけ男性学)の力を借りる必要がありますが、ここでは詳しく述べることはしません。ただ、表現規制反対派ムラは「おたく族の末裔」であり、決して「劣化したオタク」ではないということははっきりと述べておきたいです。言うなれば、彼らこそが最も「オタクらしいオタク」ということです。

 私はかつて「若者論オタク」と自称していましたが、最近はやめています。なぜなら「オタク」というものはもともとジャンルを問わないものであり、ジャンル自体が後付けであること、そして「オタク」を自称することが排外主義的な「オタク」コミュニケーションに取り込まれることを懸念しているからです。私は一介の同人作家であり、若者論マニアということにしています。「ファン」「マニア」「フリーク」などは確実にジャンルを問われますから。

 必要なのは「コンテンツに回帰せよ」ではなく「相手を人間として尊重せよ」であり、また表現規制反対派ムラを批判している左派も、世代論(若者論)に見られるような権力志向を反省せよ、ということです。そうでないと、結局ただの若者論にしかならない、ということを若者論マニア、論壇マニアとしてはっきり言っておきたいです。

私が求めていることは、要約すれば、決して特別なことではないと思います。

女性を人間として、ふつうに尊重すること。

「男らしさ」を競うことをやめ、「男らしくない」人をバカにしないこと。

自分の孤独や不安を、勝手に自分より「下」と決めつけた他人を貶めることで紛らそうとしないこと。(太田啓子『これからの男の子たちへ:「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店、2020年)p.255)

 

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