後藤和智事務所OffLine サークルブログ

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【雑記】「若者問題」の後ろで差別扇動者がほくそ笑む(2020.10.24)

本日昼にバズったこの日経新聞の記事ですが。

www.nikkei.com

私はこの記事に対してこのように反応した。

この手の「ネットで安直に右派言説に共感してしまう若者」という問題設定はたびたび新聞記事になる(今回は日経新聞だったが、体感としては朝日新聞が多い)。今月もすでにこの手の記事がバズって、そしてそれに対して私は批判していた。

note.com

冒頭で採り上げた日経の記事にも、ここで採り上げた朝日の記事のような認識が出てきている。

入試や就職活動でコミュニケーション力や「多様性」といった価値観を求められる今の学生世代。成蹊大の野口雅弘教授(政治思想)は「最近の学生は人への優しさや寛容を重視するあまり、権力者の不正や戦争などにも理解を示そうとするのでは」と分析する。

東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)は「皆で仲良くし、和を乱すべきではないと学んできた最近の大学生は『批判は良くない』と嫌う風潮がある」という。その上で「(安易に)白黒をつけるのではなく、考え続けることが大切。本音で議論できる場で、率直な意見を言い合う経験が必要だと伝えたい」と訴えている。

 この手の安直な世代論は、同様の記事で頻繁に出てくるものだ。すなわち、いまの若い世代は、コミュニケーション能力とかが重視される世の中で「批判すること」「他人を傷つけること」を嫌い、安直にああいった「いい話」に乗ってしまうというものである。そういえば同様のことを書いたとされる『やさしさの精神病理』(大平健、岩波新書)が1995年だったか。

 まずそういった議論は、世代論、若者論として少なくとも平成以降ほぼ一貫して語られてきたものであり、いまの若い世代特有の病理として採り上げることはさすがに無理があるというものをまずは理解した方がいい。

第二に、そもそもああいった「戦争には「いい側面」もあった」などという物言いは、右派論壇の常套句であり、いわば「紙ペラ1枚で”反論”してみせる」という意味では右派論壇が一貫して行ってきた手法であって、「ネット」「SNS」特有の問題ではないということである。この手法については、倉橋耕平『歴史修正主義サブカルチャー』(青土社、2018年)を参照されたい。

 右派扇動ないし排外主義の担い手としての「若者」という枠組みを用いる手法は、香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ、2002年)が象徴するように、2000年代においてよく見られた手法である。しかしそれらの議論は単純な世代論を超えるものではない。しかし単純な世代論を超えるものではない故に人口に膾炙しやすかったのも事実である。これによって左派は「けしからん若者」の一類型として「右傾化する若者」という像にすがり(それ故、荷宮和子『バリバリのハト派』(晶文社、2004年)をはじめとする諸著作などのようにただの若者嫌いを表明しているだけのものが「リベラル」として出版されたり、受け入れられたりしてしまう)、また「若者の味方(ないし見方)」をとると僭称する論客は左派がそういった無根拠な決めつけを行っていると攻撃したり、あるいは「左派」を「既得権益者」として攻撃する口実にしてしまっている。

そういった構図で得をするのは、間違いなくいまや政権の中心を構成するまでになっている正論文化人的なものであり、あるいは差別主義者、歴史修正主義者である。

このことは、この記事に登場する小野寺拓也氏の次のような「補足」でむしろ懸念がさらに深まってしまう。

 あくまでも記事中で採り上げられている一コメンテーターである小野寺氏に言っても仕方のないことではあるが、じゃあそれこそなんで「若者」を採り上げたんすか、ということである。「若者」は「問題化」しやすく、そして話も広がりやすい、という以上のものが、果たしてあるのだろうか。「若者の心」を問題化することによって隠される、批判を免れるものの存在について、もう一度考えてほしいものである。「若者の心」を問題の枠組みとして採用するのを意図的に排除するくらいでないと、不毛な議論は繰り返される。

前も同じようなことを書いていたのでこちらも参照。

kazugoto.hatenablog.com